絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

リレーの話

2009-08-14 | 思い出
続きです。

体育祭で、リレーに出ました。クラス対抗リレーです。
私は、スタートでした。距離は200M。まだ、グランドの都合でそれしか取れなかったのです。しかもオープンコースの200Mです。

私は、また、疲れないように初めを抑えて後半抜いて、一番で帰ってくるということを考えていました。すると、我がクラスの陸上部のH君が、「菅野どういう風に走るつもりだ?」と聞いてきたのです。
私は、自分の考えを言いました。すると、H君はそれでは勝てないと言うのです。
実は、同じスタートに陸上部の短距離の選手がいました。だから、そんなことをやっていたら、絶対に抜き返せないと言われました。

彼が言うには、第一コーナーは絶対取れ、取れとは一番を取れということです。
なぜなら、ここを通過するときにみんなスピードが鈍るのです。ぶつからないように遠慮をするから、タイムをロスするのです。カーブで順位が決まると、その流れで行くため、もし遅れを取ったら、その差は必要以上についてしまうのだと。
なるほど。

だから、後で抜かれるのは仕方がないけれど、第一コーナーだけは絶対に全力で行って、誰にもトップを譲るなということでした。

そうすれば、カーブではなかなか抜けないから、第二コーナーまではトップでいけるというものです。

そして、第二コーナーに差し掛かったら、カーブが終わるちょっと前にアクセルをふかせ!と言われました。さあ、直線になったら抜くぞと思っている二番手の子より、少し早めに、全速力に切り替えるのです。そうすれば、後ろが自分より速くても抜かれるにしても、少し後になる。うまくいけば次のカーブまで持ちこたえられる。もし、持ちこたえられたら、また、同じことをする。カーブでは抑え気味にして、第四コーナーの直前でアクセルというやり方。

へええ、そうなのかと感心して聞いていました。

ーーーーー
100Mの時の、私の走りを見ていて、H君が心配になったのでしょう。自分のクラスを優勝させるために、まず、私がスタートとしてトップで帰ってこなければならないと考えて、H君と同じ陸上部のO君に負けないようにするには、どうすればいいのかを作戦を与えてくれたのでした。

ーーーーーー

私は、H君の言う言葉に従って、まず、第一コーナーまで本気で走りました。
そして、言われたとおりにトップに立ちました。
そして、カーブになってから、すこし抑え気味に走りました。二番手に陸上部のO君が来ていることがわかりました。

しかし、私は抑え気味とはいえ、O君に抜かれない速さで走りました。もし、カーブで抜いて来ても、先には行かせず、抜きにかかった分だけ遠回りさせる作戦に出たのです。
それをO君は、わかっているみたいでした。初め抜こうとしましたが、抜けないと判断してやめた感じがしました。

ほおう、なるほど、さすがに陸上部だなと思いました。ただ、O君は、私がH君から策を授かっているとは、知らなかったようで、この先の展開は驚いたようです。

私が、カーブが終わる直前から全力に切り替えたからです。その瞬間「あっ」と言いました。やられた!という意味の声を発したのです。

そして、そこからO君の追い上げが始まりました。直線になったら私はスピードで勝てないことが分かっていました。なぜなら、彼は陸上の短距離の専門家です。
私は、バスケット部。バスケット部の走り方は腰を落として走ります。ステップで左右のどちらにも方向変換できる腰の備えのある走り方なのです。それが身についてしまっているため、陸上の走り方に切り替えられません。それでは、地面を強く蹴れないのです。
陸上の走り方は、腰を高くしてコンパスを広げます。そして回転数をあげるから速いのです。そのかわり横への変化には弱く、ぶつかったりすると転んだりして怪我をします。
私は、なぜ陸上の選手はあんなくらいで、怪我をするのかと不思議でした。転ぶことに慣れていないのです。それと、腰が高いからもありました。バスケットの走りなら、転んでも怪我はしません。

しかし、とにかく直線に入ったら、陸上部の走りには、敵いませんでした。それで、とうとうほぼ並ぶような状態になりました。しかし、幸い第三コーナーに差し掛かりました。私は、このまま抜かれないなら勝てるなと思いました。並んだ状態で、コーナーになったのです。

私は少し、ずるをしました。それは、カーブになったのに、曲がらないでわずかに直線を延ばしました。その意味わかりますか??

O君は、私を抜くために外側を走っているのです。直線とは言え、外側です。一歩か二歩損をしています。それを第三コーナーの部分だけ、カーブを膨らます走り方をして、私は彼の損を増やしました。実際のカーブ以上に遠回りをさせたのです。

そして、やはりカーブでは抜かせない走り方をして、また、第四コーナーに差し掛かる直前でアクセルをふかす方法を取りました。

結局、私は抜かれないで、バトンを渡すことに成功しました。

ーーーーーー
しかし、こんなことにも、作戦と言うのはあるのだなと思いました。最初の私の考えでいたら、私はトップどころか、三番手くらいでバトンを渡すことになってしまったかもしれませんでした。陸上部のH君に感謝でした。
ーーーーーー
この話は、ピカソがライバルに載せました。本庄第一高校の体育祭で美術部を優勝させるためのノウハウを生徒に教え込んだのですが、その時の話として、使いました。


自分の中学時代のことが、教員になって生かされました。美術の先生がなんでこんなことを知ってるの?と思われそうです。どこで、どんな経験が生かされるかわかりません。いろいろな経験を積んで置くといいですよ。
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100M走、200M走の思い出

2009-08-14 | 思い出
かけっこの話を書いたので、少し続きを書きます。

私は、100Mの記録が、小学校6年生の時、確か14秒2だったと思います。
それで、優勝しました。そのとき、いつもトップだったJ君を抜いて一番になりました。それまでは、足が速いのはいつもJ君でした。

そのときの、J君の気持はどうだったのかなと今になって思います。
いつもトップだった彼が、初めて負けた瞬間でした。
しかし、悔しい顔もみせずに、リレーでは一緒にチームとして、学校代表で走りました。リレーは、一番早い人がスタートを走ります。誰が決めたのかわかりませんが、そのように言われました。そして、そのスタートをいつもJ君だったのに、私が走ったのです。

そして、彼はアンカーに回りました。二番目に速い子がアンカーでした。

ーーーーーー
小学生の私には、彼の気持ちを推し量ることはできず、また、そんなことは考えもしないで、ただ、走りました。

ーーーーーーー
私は、J君に勝った時、ある作戦を取りました。
それは、100Mを全て全力で走ると、疲れてしまって、後半が伸びないので、最初の50Mを抑えぎみに走り、一応離されない程度のスピードで付いて行き、後半の50Mを全力で走るというものでした。

小学生としては、よく考えたものでした。

そして、その通りに実行しました。

ーーーーーーー
なかなかでしょ。でも、それができたのは、やはり実力がついていたからでしょうね。もし、力がなかったら抑え気味どころか、全力でも付いていくことができなかったでしょう。

結局、そんなことで、一番になりました。
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中学になって、初めての体育祭は、一年から三年まで一緒に走りました。ええーーと思いませんか?学年別でやってほしいですよね。
なぜなら、誰もがわかると思いますが、中学一年と三年では大人と子供くらいの体力の差があるのです。これは、不公平です。

しかし、私は、その三年生を含めての200M走で、三位になるのです。これは、番狂わせみたいなものです。尤も、その種目に出場した中での順位ですから、全員の中でというわけではありません。でも、選手になって出てくる人は速い人が出てくるので、この結果は少し誇らしい気持ちになりました。

ーーーーーーー

中学2年のときに、児玉町は統合中学になりました。

まだ、グランドができてなくて、体育祭はありませんでした。そのため、初めての体育祭は、中学3年生でした。

私は、100Mとクラス対抗リレーに出ました。

100Mは、例の如く、前半抑えて後半飛ばすという方法を取りました。
そうしたら、今度は失敗しました。抑えていたら離されてしまったのです。気がついたときは、遅く、しまったと思って、半分行かない内に全力に切り替えて、辛うじて一位を取りました。メンバーを見ないとだめですね。そんなことをしていたら勝てない相手がいたのです。
ギリギリで、一番になったら、バスケットの顧問から「なんだよ、もっと楽勝かと思ってたのに」と言われてしまいました。

「いえ、リレーに備えているので、軽く走りました」とウソをつきました。

ーーーーーー
リレーの話は、また、後で。





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東京オリンピックの思い出

2009-08-14 | 思い出
東京にオリンピックをということで、立候補をしていますが、私はぜひ、実現してほしいと思っています。

私にとって、東京オリンピックは、人生を変えました。

それは、小学校4年生の時でした。10歳です。いまは、55歳になろうとしていますから、45年前のことですね。(ちょうど10歳だったので、今から何年前と言うのが数えやすくていいです。)

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私は、かけっこの思い出がたくさんあります。
しかし、小学校の低学年の頃は、足が遅かったようです。
運動会で走ると、6人で走るのですが、5番か6番で、母は運動会に行っても張り合いがないと言っていました。

しかし、私は遅かった時の記憶があまりありません。ただ、かけっこの最初の記憶は、50メートルが9秒0でした。小学校3年の時です。なぜしっかり覚えているかというと、一緒に学級委員をやった女の子と同じだったからです。
というのは、一緒に走ったのです。そして、となりにぴったり張り付くように並走したため、同タイムでゴールだったのです。
ありゃー、女の子と同じかと思ったので、忘れないのです。
小学校は女の子の方が成長が早いから別に気にすることもないのですが、段々と女の子には負けないなどという気持ちも出てきていたのかもしれません。

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そして、小学校4年で、東京オリンピックを迎えます。
100メートルは、ヘイズが10秒0で優勝しました。丁度10秒0なのです。
忘れなくていいですね。

そのヘイズの走り方を見ていたら、胸を張って手を頭の上まで振り上げるような走り方なのです。あれには、驚きました。ものすごく力強いパワー溢れるものでした。
それに比べて、私の走り方は、前傾姿勢で両腕は両脇でまるで水をかくような格好で走っていました。アヒルが足で水をかくようなと言った方がわかりやすいでしょうか。
だから、私は、そのときから走り方を変えました。

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そうしたら、すこし速くなりました。
小学校4年というのは、字別リレーの選手になれる学年です。各学年の一番速い子が字の代表選手になるので、私もなりたいなあと思いました。しかし、私の字には私より速い子がいたので、私は補欠でした。しかし、字の二番手にはなりました。

そして、補欠ということは、選手になにかあれば、出るかもしれないということですから、一生懸命練習をしていました。すると、同じ字の上級生が、「お前は練習しなくていいんだよ」と言いました。「出ないんだから」と。

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それでも、出たいなあと思っていました。なぜなら字のユニホームが格好良かったからです。それを着て出るというのは、少し得意な気持ちになれるものだと感じていました。
しかし、その年は補欠でした。

ところが、小学校5年生になったら、私はもっと速くなって、選手になりました。
実は、その裏には結構自分なりに努力もしたのです。
1メートルの縄を取りだして、家の門の前から50回測り、50メートルを設定して、走りこみをしました。教えてくれる人はいませんでしたが、何度も何度も走って、自分なりに工夫しました。ヘイズの走りを研究したのです。

そうしたら、本当に速くなったのです。これは、ヘイズの真似をしたことが速くなった原因なのか、それとも私が丁度成長期に入って身長が伸びたり、いろいろな面で他の子以上に伸びていた時期だったからなのか、わかりません。

しかし、とにかくヘイズの真似で速くなったんだという気持ちではいました。

ーーーーーーー
その後、私は5年生で学校代表の4人にも選ばれて、学校対抗のリレーの選手にもなり、近隣の小学校が集まる大会で、その年優勝しました。
6年生のときには、今度は小学校で一番速くなり、同じリレーでは、スタートを任され二年連続で優勝しました。
個人で出た100メートルでは、2位になりました。
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小学校1年生の運動会で、ビリだった私が、そのような状況になるなんて母も思わなかったでしょうね。その頃は、母は運動会に来ても鼻が高かったのではないかなと思います。でも、入場行進のときの私の姿勢が悪いとかなんとかいろいろ悪い方を言ってましたけど。
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いまは、かけっこの話だけしましたが、水泳は、ショランダーの真似、マラソンはアベベの真似、トレーパンにはゴム紐をつけてもらい、吊りズボンのようにしてもらい体操選手の真似をしました。

ずいぶん、影響を受けました。

もちろん、女子バレーの東洋の魔女に感動し、三宅選手の重量上げにも、マラソンの円谷の銅メダルにも感激しました。

その後、私は走るのが好きで、中学になってからはバスケットボールをしましたが、何のスポーツをやっても走るのが速いということは有利なんですね。

だから、ずいぶんいろいろな場面で活躍をさせてもらいました。

今は、その得意の足がどこかに行ってしまいました。車いす状態ですから、一番得意な分野が使えません。とても悔しいです。しかし、自分の中では、それで得た自信は今も変わらずあるんですね。だから、かけっこの思い出を語れば、いくらでも出てくるのです。
まるで、今でも走れるような気で話すのですから。

私の記録の一番良かったのは、大学の時に測った50メートル6秒2です。
これは、スパイクを履いたわけではありません。普通の運動靴での記録です。
だから、結構速かったですよね。

自分に自信をつけるということはすごいことですよ。いま車いすでも、その自信だけは持ち続けているのですから。
だから、あの時、かけっこで経験したように、やり方次第で変わる。
世界一の人の真似をしてみようなんて、思うのもその辺から来ているかもしれません。自分だって、できるさという気持ちですね。

ピカソがライバルなんていうのも、東京オリンピックから世界を意識するようになったからかもしれません。
世界一を意識するという気持ちの現れかも。

本庄高校の校歌は、「我らは世界とともにあり」で終わります。ときどき思い出してそこだけ歌います。









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