今回は1月24日(日)に訪れました浜松博物館をご紹介
いたします。
博物館に入館すると真っ先にナウマンゾウの骨格模型が
目に飛び込んできました。
ナウマンゾウは50万年前の日本に生息していた大型の像で、
1921年(大正10年)には浜名湖北岸の工事現場でその一部の
化石が発見され、ナウマンゾウと名づけられました。
ナウマンゾウの手前の標識の「浜北人」は、
浜北市(現浜松市浜北区)岩水寺採石場・根堅洞窟で発見された
旧石器時代人です。
こちらは蜆塚公園で公開している貝塚の断面に樹脂を固めて
はがしたものです。
飲兵衛子供の頃は、塚遺跡の人達は余程の貝好きなんだなと
感心していましたが、
縄文時代ここ蜆塚の地は、当時重要な蛋白源だった干し貝の
一大生産地だったのです。
ここで生産された干し貝は物々交換により広く各地に出回った
と考えらます。
縄文時代は貨幣こそ無いものの、活発に分業・物流が行われ、
想像以上に豊かな社会だったと考えられております。
縄文土器は約1万5千年前から2千年前までの縄文時代に造ら
れた土器です。
かって縄文土器は世界最古の土器ではと考えられいましたが、
その後中国・江西省で出土した土器が約2万年前の世界最古の
の土器と呼ばれるようになりました。
石器の発明により人類への道を歩みだした我々の祖先は、土器の
発明により食生活を飛躍的に向上させ、文明への道を歩み始めました。
こちらは弥生時代後期、
岡の平遺跡より出土した木製農具のレプリカです。
弥生時代になると青銅器が登場します。
愛知県東部(三河)から静岡県西部(遠州)にかけて分布している
三遠銅鐸です。
これらの銅鐸は祭祀に使われたものと推測されています。
都田川東岸から三方原台地へ続く山の斜面から大量に出土され、
その地域は考古学オタクからは銅鐸銀座とも呼ばれています。
更に古墳時代なると、
こちらの三角縁神獣鏡が各地の古墳から多数出土する様になります。
かっては、卑弥呼が魏より賜った魏鏡ではないかと思われていましたが、
肝心の中国ではこの三角縁神獣鏡は一枚も出土せず、
どうやら日本国内(近畿)で製造されたのではないかと考えられて
います。
更に時代は進んで奈良時代。
浜松市伊場には国の出先機関が置かれました。
その伊場遺跡から出土した木簡は当時を知る重要な資料と
として注目を集めました。
(残念ながら展示品はレプリカです)
平安、鎌倉、室町時代を跳び越して戦国時代後期、
徳川家康公の立体しかみ像です。
三方ヶ原の合戦で武田に敗れた家康公が自戒のために自身の姿を
描かせたと云われています。
浜松市がそのしかみ画像を元に製作した立体像です。
最後に、
浜松博物館の展示品は大多数が、精巧に作られてはいますが、レプリカで
ある点が残念でした。