私の数ある失敗のひとつに
息子の不登園や不登校に関して、多くの専門家から
「頑張って無理をし過ぎたのです。
今はゆっくり休ませてあげてください。
元気になるまで待ちましょう」
と言われた時に、
『待つ』っていうことの意味を取り違えて
その待ち方が
ふすまの陰から覗いている「ちびまる子ちゃん」の野口さんのようだったり
(つまり待ち方が恐い。
「お母さん、ここで待ってるわよ~ 早くよくなって~」と怨念を送ってる)
「なんでうちの子が・・・」と柱の陰で泣く飛雄馬の姉、明子のようであったり
(つまり重たい。その上無能。その態度が余計ダメージを与えている)
「どぉれだけ待てばいいのですか ああ届かぬ愛を~」的な、
『万里の河』的な、
折角待ったのに結局最後は責めるんだ?的な待ち方だったりしたことだ。
まだか、まだかと待たれていてはゆっくり休めないのにね。
休んでも休んでも時間が過ぎるばかりで、
息子の体内お休み度計測カウンターは0~1を行ったり来たりするばかりなのでした。
そんで、5(100のうちの5だよ・・)くらいたまると
「もういいんじゃない?」と引っ張り出して
すっからかんにしてしまうような親でした。
それなのにうちの息子は本当にけなげでえらかったと思います。
何度も何度も、期待に応えようと立ち上がってくれました。
なんて強いんだ。
「待つ」ことすらちゃんと出来なかった15年だけど今から挽回します。
ここらで、そろそろ息子の役に立ちたいのです。
それをどうせなら楽しくやりたいのです。
いや、やるのです。
も少し頼れる親になるのです。
なるほどなあと思いました。
もう一つ、「待っています。待っています。と聞こえはいいけど、それってとまっています。とまっています。になっていないか?」と言った人もいました。ちゃんと自分の課題に向き合っているのか?と。人をダシにして停滞しているだけじゃないのか?と。
手厳しいなあと思いました。
そんなことを思い出させてくれる、きょうのハナウタちゃんの「決意表明」でしたよ。
「待つ」って何もしないことなのか、とか。
いつだって自分自身が問われるよね。
簡単に分かった気になったり、誰かに言われた通りにしたり、形だけ真似してもダメだね。
自分で徹底的に考えないと。
そんなことを改めて考えさせられた せすなさんからのコメントでしたよん。
それでわかったんだけど、「いつまで待つか」という設問になってる段階で何かが違ってる。何歩か下がって違う方角へ進んだ方がいい。
誰が誰の何を待つのか。
それぞれがそれぞれのペースで歩いているだけのことなのに。
でも今のウタコならとっくにそれはわかってるよね。
まだあったのか、と驚きますが。
だから達観に至らないのです。
間違っている可能性もいつだってあるし。
ただ、今の私の到達点はそんなに悪くないと思ってるけど、てへぺろ。
2か月を過ぎた頃、世の中に置いて行かれている感が強すぎて、無理やり自分自身に元気になれ、と言い聞かせて、その気にさせてみたことがあります。
結果として1年後に再度ダウンしました。
ここでやっと気が付きました。
私は自分を待てなかったのだと。
自分自身だって自分を待つことができないことがあるのですから、自分以外の人はもっと待てないはずです。
失敗を繰り返して、初めて分かることがあるし、2度と同じようにしないと思っていても、結果として同じ失敗をすることもあります。
待つことはとても難しいです。
焦りそうになったら、あみんの「待つわ」を脳内再生しています。
傷ついた人の心の回復を待つことや、深い悲しみの中にいる人を待つことなんかも難しいですね。
いや、むしろ待たれたら迷惑なことだってある。
難しいな。
でも失敗したから分かることがあるのはその通りで、そこを通ってきてようやく今があるんだよなと思えるようになったかな。
makotoさんは自分でも経験があるから待つことの大変さを想像できるのですね。