水曜日は仕事を休んで病院に行った。
早く診察が終わったので、帰ろうとしたら、病院前の道路に「林子平の墓」の案内が出ていたので行ってみることにした。
しばらく西のほうに歩くと案内標識があったので、そこから北のほうに上がって行った。
しばらく歩き回ったが次の標識が見つからない。
見当をつけて四辻を左の方に曲がっていったが、それらしきものが見つからない。
そうこうするうち、市の広報板に子平の記事が貼ってあった。
ここは子平町(しへいまち)というのでその案内も兼ねていると思う。
ここでやっと、グーグルマップを見た。来すぎていた。先ほどの四辻を直進すべきだったのだ。
戻って、めざすお寺についた。こちらは曹洞宗龍雲院。
門前に子平の墓の案内があった。市の案内板だが、字が薄くなっているところもあり読みにくい。
「国指定史跡」とある。それも昭和17年の指定である。
こちらが林子平の墓域
隣に六角堂もある。
手前に長崎遊学から書写し持ち帰った日時計もありました。
林子平は、江戸後期生まれの経世論家とウィキペディアにはあります。
幕臣の次男として江戸の生まれ、叔父の下で養われた。
姉が6代藩主宗村の側室となり、その縁で叔父が仙台藩の禄を受けるようになり、
子平も仙台藩士となったといいます。
全国行脚や江戸、長崎遊学でいろんな人と交友をもち、「三国通覧図説」や「海国兵談」の著作をあらわし、
「およそ日本橋より欧羅巴にいたる、その間一水路のみ」と喝破した。
ただ「海国兵談」は幕政に口出しをしたと発禁処分にあい、子平も強制的に仙台へ送還され蟄居を命ぜられた。