2014年、岩手県奥州市水沢に出かけた。トップの写真は後藤新平記念館です。
奥州市は、かつては伊達藩の一部で、水沢といった。
水沢城は、伊達藩領の北辺鎮護の任に当たり、留守宗利が初代城主となり、明治維新まで約240年続いた。
高野長英、後藤新平、斎藤實(まこと)の故郷である。この3名は「水沢の三偉人」と言われています。
記念館前に「高野長英の碑」がある。
高野長英は、1804年水沢で生まれ、世界に目を開き日本の夜明けのために生涯をささげました。
17歳で江戸に出てオランダ医学を学び、さらに長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾において、医学と蘭学を学びました。
その後江戸にもどり、開業しながら翻訳を続け、庶民の要求にこたえる学問を続けました。
1838年「夢物語」を書き、これが幕府を批判したとして投獄されました。
1844年脱獄し、数多くの門人や宇和島藩主や薩摩藩主に守られ潜行千里その間も医療や天文学、兵学などの
著訳に力を傾けました。
そして、薬品で顔を焼き、人相を変えて医療を続け、1850年江戸で幕府の役人に襲われ自刃しました。
47歳でした。
上は、後藤新平の像
後藤新平は1857年水沢に生まれる。
1869年安場保和の学僕となる。1874年福島県の須賀川医学校に入学、
医学校卒業後、医師として愛知病院に勤めることになる。オーストリア人のローレツ博士から
西洋医術と衛生学を学びました。24歳で愛知病院長と医学校長を命じられました。
その後、内務省衛生局の仕事をし、ドイツへの私費留学により、衛生制度や社会政策を学び、
帰国後衛生局長となりました。
1898年、台湾総督府民政長官を命ぜられ、新渡戸稲造とともに製糖業の振興にあたりました。
1906年、南満州鉄道株式会社の初代総裁
1908年、逓信大臣となり、その後内務大臣、外務大臣をも務めました。
1920年、東京市長
1923年、関東大震災が起こると、帝都復興院総裁になる。
1924年、東京放送局初代総裁となる。
1929年、71歳で亡くなる。
近代日本を築くことに活躍し、東京の近代都市化、都市計画の推進、ラジオの普及と放送の活用に努力した
東北の生んだ偉大な巨人でした。
斎藤實の銅像
斎藤實は1858年水沢で生まれ、海軍兵学校を卒業、アメリカ留学を経て、
日清、日露戦争のあと海軍大臣、海軍大将となりました。
1919年朝鮮総督を勤め、1932年第30代内閣総理大臣となりました。
1935年、内大臣となりましたが、その翌年の2・26事件で凶弾に倒れました。78歳でした。
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