郷が杜備忘録

旅行や読書と日々の行動の記録。
日常のできごとや思い出の写真が中心。 たまに旅行の記事も投稿します!

go to 歯医者

2020-12-23 | 日記

今日は良く晴れた。温度もここ二三日より上がり、寒さの厳しさはいくらか和らいだ。

仕事を終えて、歯医者に行ってきました。

先週発売のサンデー毎日に、「トラベルよりイートよりgo to 歯医者」の記事がありました。口内の歯周病菌や虫歯菌などが新型コロナ感染症を誘引し、重症化にもつながると書いてありました。

そういう訳ではありませんが、私は定期的に歯医者さんに行っています。

歯の点検とクリーニングなどをしてもらっています。

年を取ると、誤嚥などで肺に細菌が入ってしまうことが多いというので、そんなことも気にしています。

口腔内を健全な状態に保つには、歯磨きが基本です。とりわけ歯と歯の間を清潔に保つのが大事だといいます。

そのためには、フロスが必須といいます。加えて歯間ブラシを使うとより良いそうです。

 

毎日毎日コロナ感染者が最多を更新しています。

私の仕事はテレワークはありません。現地に行かないと仕事になりません。

元気に働くためにも健康が第一です。

この冬は昨年と違い寒さも厳しく、雪も多そうです。

年末年始には大きな寒波が来ると言われていますので、日々健康管理に気を付けて過ごしたいと思います。

 

今日の仙台駅前周辺

 

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今年も干し柿が届きました。プラス木星と土星の大接近。

2020-12-22 | 日記

今年も友人から干し柿をいただきました。

山形の上山市の干し柿で、山形ではつるし柿と言います。

干し柿は身体に良く、大腸の整腸作用があるようで、毎日からだの調子が良く感じます。

今日は夕方の南西の空に、木星と土星が並んで見えました。

双眼鏡では確認できましたが、スマホではうまく写りませんでした。残念😢

中央の黒い雲の上にある小さな星が木星と土星です。

左に木星、右に土星で並んでいました。

 

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奇策(北の関ヶ原・福島城松川の合戦) 風野真知雄著

2020-12-19 | 読書

私の故郷、福島に係わる小説であった。

今、 私の住んでいる宮城県は江戸時代は伊達氏の領国であった。

伊達家は鎌倉時代、奥州合戦により頼朝軍の前衛軍として活躍した中村常陸入道念西が、頼朝から伊達郡を拝領、

姓を伊達氏と改め伊達郡高子岡に居城したという。したがって当初の領地は福島県県北地方の伊達郡であった。

伊達政宗は17代目で、当時の居城米沢城で生まれている。

戦国時代、南奥州には、会津の芦名氏、二本松の畠山氏、三春の田村氏、相馬の相馬氏、南の茨城には佐竹氏がおり。

北の山形には最上氏、宮城県は国分、留守、大崎、葛西の各氏が割拠していた。

南の福島県中通り、会津エリアを中心に領土争いが行われ、芦名氏とは摺上原(すりあげはら)の合戦で雌雄を決し、

芦名氏は滅亡している。時は1589年、政宗は米沢と福島県、宮城県に最大領土を獲得し、会津の黒川城にはいる。

しかし、全国的には豊臣秀吉の天下統一が進んでおり、1590年北条征伐が起こり、政宗は小田原参陣、北条氏の

滅亡とともに、秀吉の奥州仕置(東西一統)が行われる。

この奥州仕置により、会津と福島は蒲生氏郷に、大崎・葛西の宮城県は木村吉清父子に与えられ、政宗に残ったのは

米沢と宮城の県南部分だけであった。

その後、大崎・葛西一揆があり、政宗の居城米沢を没収され、岩出山に移った。

 

前置きが長くなってしまった。

今回の小説の舞台と時代は、先に書いた福島市の周辺であり、1600年の関ケ原の合戦の前後のことであった。

奥州仕置きの後に、会津の城主は上杉景勝となっており、米沢にはその家臣の直江兼続が入っていた。

当時政宗は岩出山におり、福島周辺は本庄繁長という武将が城代をしていた。

上杉征伐に小山まで出てきていた徳川家康他東軍は、西軍の蜂起の情報により、小山から西に転進を進めていた。

上杉軍は、家康軍の後背を突くわけではなく会津に居座っていた。上杉軍は、北の最上軍や伊達軍も警戒していたのである。

政宗は、上杉軍の武将のいた白石城を攻撃し奪っていた。福島の北の国見の峠を越えて、福島城を狙っていたのである。

福島城代の本庄繁長は、今の福島県庁あたりにあった居城で、政宗の攻撃への対応を考えていた。

 

この時期、米沢にいた直江兼続はNHKの大河ドラマでも有名になったが、北の山形城を攻撃するため、その西にあった

長谷堂城を攻撃していた。通常これが「北の関ケ原」といわれているようだが、その他にも、奥州南3県周辺では、上杉氏、

最上氏、伊達氏の攻防が行われていたのであった。直江は、関ヶ原の合戦が東軍の勝利になると、急ぎ長谷堂城から撤退している。

 

福島城の攻防では、伊達軍が福島の南の大森城を攻略して、北と南から挟み撃ちにしようとしたが、本庄軍の画策で失敗し、

信夫山の麓に本陣を置いていた伊達政宗軍に、本庄軍が北側を回りこんで本陣下に現れ、福島城を攻撃しようとする伊達軍を

追い込んだようです。

なお、ここに言う松川という川は今は信夫山の北側を流れていますが、その当時は信夫山の手前、南側を流れていたといいます。

小説に言う「奇策」とは、本庄軍の一部が福島城の前を流れていた阿武隈川を下り、下流の摺上川のあたりで上陸し

信夫山の裏側を回り政宗本陣の近くに攻撃をかけたことを言います。

この福島城松川の合戦では、伊達軍は2万に対して、本庄軍は4千ともいわれます。

この奇襲によって伊達軍は崩れ、撤退に追い込まれたようです。

 

関ケ原の西軍敗北により、上杉景勝は会津の領土を奪われ、米沢三十万石に押し込まれます。

それでも福島市周辺はまだ上杉領でしたが、1664年に上杉藩の跡継ぎ問題で15万石に減らされ、

その際福島周辺は幕府の直轄領となりました。

 

なお、この小説の作家「風野真知雄」さんは、1951年生まれの福島出身の作家でした。

NHKでも放映された「妻は、くノ一」などが有名だったようです。

 

 

 

 

 

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仙台の街 未来予想図(2020.12月)

2020-12-15 | 日記

先週発行のスーモマガジンの特集に「仙台の街 未来予想図」がでていた。

この企画は毎年今頃になると出ていて、これから仙台の街がどのように変わる計画があるかが紹介されている。

 

今年は「せんだい都心再構築プロジェクト」が紹介されていて、これは仙台市が2019年7月にスタートさせた。

重点エリアが3つあって、仙台駅エリア、青葉通り一番町エリア、勾当台・定禅寺通りエリアとなっている。

下記の図で、青色で区分したところだ。

この中で一番気になるのは仙台駅の西口エリアである。

ここにある「旧さくら野百貨店 仙台店」跡地が2017年2月に閉店してそのままになっていたからだ。

「ドン・キホーテ」を展開する「パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス」が開発を計画し、

オフィスビルとホテル2棟が建設され、低層階が商業施設で繋がれるという。

2027年度中に完成を目指しているという。

また、仙台市では仙台駅前の目抜き通りである青葉通りを広場にするという将来イメージがあるという。

とにかく、旧さくら野の一帯はもったいないので早めに開発されるといいと思う。

 

一番町エリアでは、3丁目地区が「藤崎百貨店」の本館建て替えを中心に再開発が予定されているという。

ただ完成時期は未定なので、ちょっと残念である。

 

勾当台・定禅寺通りエリアでは、仙台市役所本庁舎建て替えと勾当台公園再整備が予定されている。

市役所は2027年度完成予定で勾当台公園は完成時期未定なので、これもまだまだ先であった。

 

近いところで完成が待たれるのが、「JR仙台イーストゲートビル」で、2021年2月開業予定という。

大分できてきており、開業が待たれる。

地上13階で、2・3階フロアに「WeWork」が東北で初めてオープンするという。

コミュニティ型ワークスペースということだが、私にはいまいちイメージができない。

1階吹き抜けのエントランスホールでは、地域交流の場として地域や音楽のイベントが

定期的に行われるというから、楽しみにしたい。

街の様子も変わっていくようだが、とにかくコロナが収束しないと人の集まりも望めないので、

ワクチンが早くできて、心配しないで出歩けるようになってほしいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「新版 本居宣長の不思議」

2020-12-13 | 雑誌

先に投稿した松阪市に旅行した時に、本居宣長記念館で購入した本である。

この本の最初のページには「宣長の不思議な世界へ ようこそ norinaga・world 2013 」

と書いてありました。

次のページの館長のあいさつに、その説明がありました。

 

本居宣長は江戸時代の国学者です。

伊勢松阪の商家に生まれ、34歳で賀茂真淵との出会いを契機に「古事記」研究を本格化させ、

35年の歳月をかけて「古事記伝」44巻を執筆し、72歳でこの世を去りました。

その生涯には、一見すると何も謎はない。本居宣長記念館は多数の資料があり、宣長の家庭環境や少年時代の様子、

古事記研究の動機など、その行動や考えを教えてくれる資料があります。

でも立ち止まって見ると、なぜ200年以上も前の人のことがわかるのでしょうか。

記念館にある「古事記伝」の宣長の筆跡に驚く子供たちがいます。家計簿からメモ、遺言書まで残っています。

ごく普通の生活を営む宣長がいる一方、「物まなびの力」に駆り立てられた、学ぶ歓びに満ちた人生がありました。

この二つを融和させる工夫こそが不思議の正体なのかもしれません。

宣長の不思議は、私たちの人生の不思議でもあるのです。

 

以上が、館長あいさつの概要でした。

この資料には、宣長の日記や手紙、絵や図など詳細に載っていました。

宣長の生きた時代は18世紀でした。時代は国内も海外も大きな転換点の時代だったようです。

全てを熟読したわけではありませんが、先達の業績の素晴らしさを感じることができました。

 

この記念館でお土産に「駅鈴」というものを買ってきましたの。

宣長の学者としての象徴ともなった「鈴」は、今も松阪のシンボルとして愛されています。

この「鈴」は宣長が鈴が好きなことを聞いた石見国浜田藩主松平康定公の心尽くしのプレゼントだったということです。

「駅鈴」とは、古代、地方に派遣される役人が身分の証としたもので、隠岐の国造家に伝存したものを模しているといいます。

 

この像は、「本居宣長六十一歳自画自賛像」といい、宣長61歳の時(1790年)自分で写した肖像だといいます。

この絵に「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」の歌が添えられています。

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