気の向くままに

山、花、人生を讃える

総裁先生の講習会を受講して

2010年03月18日 | 信仰
しばらく書き込みから離れたら、つい書くのが億劫になり、この調子ではますますブログから離れてしまいそうなので、いい加減に何か書かなければと久し振りに書き始めました。

今月14日は総裁雅宣先生の講習会がありました。
素晴らしい講習会でした。

純子先生の日時計日記に関する話の中で、「人生を深く味わう」というコトバが出て来ました。
「深く味わう」というのは、何か特別な良いことがあったときばかりでなく、日々のなんでもないことの中にある有難さに気付き感謝する、ということですが、谷口雅春先生も講習会で「味わう力」の大切さをお説きになったことがありました。
懐かしさと共に、「深く味わう」という言葉に心打たれ、その時その時を「大切な時」とする自覚の薄さを反省させられました。

講習会翌日の中日新聞には、夜回り先生の記事があり、そこには、学生たちに「不景気で就職氷河期と言われているが、心まで貧しくしてはいけない」と励まされたという話が出ていました。
前日の純子先生の話に続いての「心まで貧しくしてはいけない」に、最近の自分も、世相に同調するように、いつのまにか貧しくなっていたと反省させられました。

雅宣先生のお話も、聴講者に語りかけられるような語り口で、前回もそうでしたが、耳を傾けているだけで、雲の上にでも乗っているような、何の心配もないやすらかさに包まれるようないい気持ちになりました。
特に今回は卓上マイクではなく、ヘッドホンマイクと言うのか名称は知らないのですが、そんなものをつけておられたので、従来のように卓上のマイクの位置に拘束されず、自由に身体を動かしながら話をされるので、聞く側には、耳から聞こえる話と共に、視覚的にも話し手の動きに引き込まれ、いっそう一体感が感じられて、とても良かった。

午後は例によって、午前の先生の講話についての聴講者からの質問に答えられるところから始まりましたが、その質問には、こんなものがありました。

「どうして神は、はじめから迷わないように人間をつくっておかれなかったのか?」
「どうして神は、私たち人間をはじめから完璧に作ってくれなかったのか?」など、この種の質問が3つあったとか。

この日の雅宣先生のこれらの質問に対する解答は、「自由」ということをキーワードにして説かれました。
簡単に言えば、「選択肢がひとつしかなかったら、それしかないのだから、迷ったりしなくていいし、いつも勝利や成功ばかりが約束されていれば、とても有難い気もするが、それでは選択するという自由もないし、喜びもない。迷う自由もあるわけですね。」というような話をしてくださいました。

わたしも、ときどき特にニュースを見たりしている時など、神にこのような質問をしたくなることがあるので、このような質問を聞くと嬉しい気がするし、先生の答えも、「現象はない。実相の完全さのみがある」式の解答ではなく、質問者の気持にまで一歩降りたようなこのような解答をいただけるのがとても嬉しい。

とは言え、わたしはただ、諄々と説かれる先生のお話に心地良く耳を傾けているだけでした。
聞いているだけでいい気持ちにならせていただけるので、「どうしてこんないい気持ちになるのだろう?」と、不思議に思いつつ話を聞いておりました。

そして、すべての行事が終わって退場されるとき、聴講者に向かって両先生がお揃いで合掌されました。その光景の美しかったこと!! 感動的でした。それを見たら、ますます、ただ有難いばかり。
-本当に素晴らしい講習会でした。


帰りは家内と一緒に帰り、いよいよ家内もパソコンが欲しいと言いだしたので、名古屋駅近くの「ビッグ」によって、そのパソコンを買って帰りました。
そして、今日はパソコン用デスクも買い、セットアップもして、いよいよ使えるように準備万端整いましたが、はたして、どれだけ使ってくれるか、お楽しみというところです。



読んでいただきありがとうございました。