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浜離宮庭園(東京都港区)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
「約束くらい守って!」
「相手の身になって考えようよ」
「人に優しくするんだよ」
相手が間違っていたり負い目がある時、
こうやって「正論」を言って指摘してあげたり、諭したりするのは、
道を誤らせないようにする、大切な心掛けです。
しかし、「正論を言えばなんでもよいのか」といえば、
必ずしもそうとは言いきれないんですね。
考えてみて下さい。
「正論」が必要になるのは、相手が間違えているとか、要領が良くない、
つまり「相手が悪い」からです。
しかし現実問題として、「お前が悪い」と言われて、
どれくらいの割合で「そうですか、ありがとうございます」と心から感謝されるでしょうか!?
「時と場合によるとしか言いようがない」というのが答えになるのでしょうが、
結局、どんなに言い訳をくっつけた所で「たとえ正論でも、相手に100%納得されるとは限らない」のです。
つまり、同じ「正論を吐く」ことでも、
相手の心を掴むかはTPOやこちらの工夫で変わってくる、
言い換えれば「いくら正しいことだからと言えど、言い方・伝え方に無頓着でいてはいけない」ということになるんですね。
私が見ていて「幼いなあ…」と思うのが、
「正論を吐いて、相手を完膚なきまでやり込める」という場面。
「自分が正しい」ということで浸れるある種の優越感、
あるいは「自分は強くて素晴らしい存在なんだ」という万能感、
「正論」を使って相手にぐうの音も出ない位に追い込む時、
だいたいこんなものが見え隠れするものです。
でも、ちょっと考えればわかるのですが、
「強い」とか「素晴らしい」のは「正論」だからであって、
必ずしも本人の力ではないんです。
ちょっとゴチャゴチャになってしまったので整理しますが、
「間違った人」と「正論」が道端に転がっていれば、
とりあえず屈服させることくらい、誰にだってたやすいわけです。
それをどこかまかり間違えてしまうから、
正論を吐く側は勘違いするし、ぶつけられる側はブスッとするわで、
結局、ろくなことがないんです。
ちなみに「正論で相手を追い込む」なら、それは精神的な暴力をという言い方だってされてしまいかねません。
じゃあ、「本人の力」って一体、なんなのでしょうか!?
それは、「正論を相手が納得するよう、優しく根気強く伝える力」なんです。
正論を言うこと、指摘してあげること、
あるいはどれが正しい意見なのかを見抜くことだって、大切なことには違いありません。
しかし、現実に本人が変わらなければ、
いくら「正論です」と言っても結局は相手を追い込んだり、場合によっつは逆ギレさするだけです。
これではなんのための「正論」なのか、
わかったものではありません。
「正論」を使って、相手をどうしたいのか。
ここがハッキリしないまま、話をぶつけないことです。
そろそろ「正論」を吐きすぎて「この投稿こそ煙たいじゃないか」と言われてしまいそうなので、
そろそろ終わりにします(笑)
人は「正しさ」だけでは動かないのです。