宮ヶ瀬バレンタインウィーク(神奈川県愛甲郡清川村)
※このイベントは終了しています
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
「後悔、先に立たず」と言います。
「愚策だった」
「失敗してしまう」
前もってこんなことをわかっていれば、ドジを踏んでしまうこともないわけです。
しかし、「成功」や「失敗」というのは結局、「結果」でしかありません。
つまり、「成功」や「失敗」という観点で物を言っている限り、
「過去を振り替えってあーだこーだ言う」域からはどうしたって抜けられないわけです。
さて、人間はエスパーではありませんから、
未来のことを「予測」は出来ても、「透視」や「断定」は出来ません。
ゆえに、人間である以上、過ちやすれ違い、得体の知れない歯痒さがあるのもしかたのないことです。
逆に、いかんともしがたい後悔や自責の念にさいなまれるというのも、
人間である以上、またごく当たり前の話です。
問題は、その「後悔」の扱い方です。
後悔することで変えられるのは、過去ではありません。
少し細かい話になっしまうのですが、
過去に意識を向けている時、
・過去に起こった事象そのもの
・当時の心境や、その心境に対する後悔
このどちらに焦点があるのかが大切なのです。
わかりやすいように例を挙げてみますが、
たとえば、フライパンを焦がしてしまったとします。
当然、また使うためには放置するわけにはいきません。
その時、フライパンの焦げ目に意識を向ける(あと、どうやって再生するか考える)のか、
焦げ目を通して刺激される自責の念に囚われるのか、
このどちらかでは、全く意味が違うということを言いたいのです。
さて、お話ししてきたように、「後悔」というのは人間の宿命です。
しかし、「過去に起こったこと、しでかしてしまったこと」は、
自分を責めるために使うだけが、能ではありません。
むしろ、せっかく変わらない、あえて脳天気に言えばそれ以上ひどい状態になることはないのですから、
その「因果関係」から、伸びしろや改善点を見つけにいく意識が大切なのです。
「if」や「たられば」を出さないことが無理なら、
自責の念に囚われて悶々とするより、
それを出来るだけ活かす発想でいたほうが、自分に嘘を付くよりどれだけ楽なことかと思いませんか。
もちろん、過去のことから学んだことがあれど、
もしかしたらその当時と状況は違うかもしれません。
しかし、出来るだけ活かせばよいのです。
なぜなら、現実は1つだけで、同じ状況が完璧に再現されなければ、
その学びを完璧に活かすことも不可能だからです。
この「出来るだけ」というのがポイントです。
責任を果たすのは必要なこととしても、
過去から得た学びを最大限活かすことを考えれば、
幾分、自責の念も薄れるのではないでしょうか!?