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五條天神社の梅(東京都台東区)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
全力で後ろ向きに考えると、生きていく事とは「労力を使う事」そのものです。
家事やお仕事などといったことはもちろん、
歩くこと、物を食べること、あるいは人と付き合うことといった、
「生きていれば当たり前にすること」であっても、労力は使います。
どんなことにも言えるのですが、
めんどくさいと思おうとすれば、なんだってめんどくさいことになるのです。
つまり、気分ひとつで「めんどくさいこと」の量や質は変わるわけです。
さらにまた、気分が優れなければ、
実際に使う労力とは関係なく、目の前のことがものすごく重荷に思えてくるのも、
人間に共通して言える心理ではないでしょうか。
さて、「歩くこと」すら、「めんどくさいもの」と思えるのに、
散歩を楽しんだり、歩くことそのものが大好きだという人がいるのは、
一体なぜでしょうか!?
…それは、「労力を上回るもの」を見出だせているからです。
たとえば、歩けばいろんな景色が見られます。
どこか目的地を決めて歩くというだけで、達成感を味わったりもできます。
また、健康の増進にも非常によく、身体の機能を強化したり、
プロポーションも引き締まってくることだってありますよね。
このように、労力をかけても、その代償が労力より大きいと思えた場合、
ほとんどの場合、なにをやっていても程々で済むのです。
この「代償のほうが大きいと思える」というのがカギで、
はた目から見て「そこまですることか!?」と思えても、
本人が納得してしまえば、言い換えれば気分が乗ってしまえば、
なにをやっていても、ある程度は我慢できるのです。
もちろん、自分をごまかしてまで苦しみに耐える必要はありません。
「痩せ我慢」は、心を傷つけ、消耗するだけです。
苦しいものは「苦しいもの」のまま、変わらないかもしれない。
苦労なんかしないほうが良いに決まっています。
しかし、もし苦しいことがあった場合、
「人間が苦しく感じるのは、その意味や代償を見出だせないから」と知っていれば、
少しは気持ちも和らぐと思うのです。
どんなことでも、意味を見出だせるまでが、実は一番大変なのです。
逆に、「これは生みの苦しみなんだ」と意味さえ見出だしてしまえば、
多少のことは乗り越えやすくなるのです。
多少は空想にふける位でもいい、
「これにはどんな意味があるんだろう!?」と考え、その答えを大切にする。
こんな考えが立ち上がるきっかけになることもある気がするのですが、
いかがでしょうか!?