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亀戸天満宮の梅(東京都江東区)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
「結局、自分にはよいことが…」
「どうせこんな自分なんか…」
こんな弱音を吐いている人を見て、よい気分になる人はいません。
そしてまた、人が離れていきますから、
結果として「どうせ…」という人は、本当にろくでもない現実を実現してしまうのです。
おしまい。
…って、嘘ですよ、嘘(笑)
ここからがメインのお話です。
「弱音を吐くな」
「泣き言を聞きたくないのではやめて下さい」
こんなことを簡単です。
しかし、わざわざ必要が不愉快になり、去っていく言葉を吐くきらいはありません。
そんな嫌なこと、本人だって本当は言いたくて言っているのではないハズです。
そのへんをきちんとわきまえていないと、
励ましどころかかえって前向きさを奪い、逆効果なってしまうのです。
さて。
なんでもそうですが、物事には因果というものがあります。
あたかも自分を見捨て、あきらめるような台詞を言うのも、
それなりの理由があってのこと。
本人なりに破れかぶれで頑張って、でも力尽きてしまったり、
あるいは無限の無価値感や罪悪感に心が支配されてしまったり、
ネガティブの度が過ぎてしまったり。
できれば元気でいられることを言っていればよいのに、それをしない。
つまり、「重たいことを言うのにも、みんなそれなりの理由があって出てきている」と考えるのが自然です。
ところで皆さん、生ゴミを見て、「どうにかしてこれを食べられるようにしよう」と、
普通は思いませんよね。
ゴミになった姿を見て、残念とも思わないでしょう。
それと同じように、わざわざ「どうせ自分なんて…」と繰り返すのは、
無意識では「本当は自分も価値がある」とわかっているからなんです。
本当にダメで無価値だったら、生ゴミと同様、あきらめるのも厭わないハズですし、
そもそも自分のことを考えようとも思いませんよね。
それを悔しいとか惜しいと思えるのは、
潜在的に自分の価値をわかっているからに他ならないのです。
生きていれば、挫折もあれば、限界を見ることもあります。
しかし覚えておきたいのは、人間は「七転び八起き」の生き物だということ。
転んでからすぐに立ち上がるのは、もしかしたらツラいかもしれない。
でも、休み休みでも、立ち上がる限り可能性が再生するのもまた、事実です。
「苦しいけど本当は自分を捨てたくない」。
泣き言の中もこんな自覚ができた時、
きっと立ち上がれていると思うのです。