河津桜(東京都江東区)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
たとえば、「体力がない」という時。
たしかに「体力がなく、及ばない」のでしょうが、
この「ない」という言葉、実は案外、曲者(くせもの)なんですね。
「体力がない」というのは、ニュアンスとしては「体力が(必要なだけ)ない」ということであって、
「体力が(全く)ない」という意味では、決してないわけです。
それなのに、「必要なだけないのなら、ないも一緒だ」と無意識に思い込んで、
せっかく残った体力で最善も尽くさずに終わってしまう、
これが「〇〇がない」という言い方の盲点であり、同時に避けたい点でもあるのです。
言うなれば、「〇〇がない」という考えが生み出しがちな思考は、
プリンを7割位食べた後に「もうプリンがない」とうそぶき、
せっかくある残りの3割を捨ててしまっているようなものなのです。
「時間がない」
「お金がない」
「愛情がない」
こんなことを口にするのは簡単ですし、
実際に口にしてしまったこと、結構あると思うんです。
「現状認識」という点ではOKなのですが、
「〇〇がない」という言い方で得られるものはなんなのか、
同時に考えておく必要があります。
せっかく残されたもの、与えられたもの、
あるいは手にしているものがあるのです。
自分の持っているものが理想を満たさないからと言って「ないものも同然」に扱ってしまえば、
本当は出来たかもしれないこと、
出来なくても明日になら繋がりそうなこと、
こんなことの芽をつぶしてしまうことになりかねません。
「全て出し切る」とか「絶対に諦めない」という考えが全てではありません。
しかし、「可能性を自ら放棄している」と知れば、
「〇〇がない」という言い方は、とても勿体ないと思えるハズなんです。
たとえレベルが低くとも、余程知恵を絞るか他人の力でも借りない限り、
そのレベルから始めるしかありません。
冷静に考えればわかるハズです。
そこを、「〇〇がない」と追い込んだところで、
なんにも待っているものはありません。
論より実行です。
「〇〇がない」と言いそうになったり、実際に言ってしまった時。
試しに、「〇〇がある」と、嘘でも口にしてみて下さい。
「〇〇がある部分」なんて、頭が勝手に探してくれます。
きっと自分が持っているものも、捨てたものではないと思えます。
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
たとえば、「体力がない」という時。
たしかに「体力がなく、及ばない」のでしょうが、
この「ない」という言葉、実は案外、曲者(くせもの)なんですね。
「体力がない」というのは、ニュアンスとしては「体力が(必要なだけ)ない」ということであって、
「体力が(全く)ない」という意味では、決してないわけです。
それなのに、「必要なだけないのなら、ないも一緒だ」と無意識に思い込んで、
せっかく残った体力で最善も尽くさずに終わってしまう、
これが「〇〇がない」という言い方の盲点であり、同時に避けたい点でもあるのです。
言うなれば、「〇〇がない」という考えが生み出しがちな思考は、
プリンを7割位食べた後に「もうプリンがない」とうそぶき、
せっかくある残りの3割を捨ててしまっているようなものなのです。
「時間がない」
「お金がない」
「愛情がない」
こんなことを口にするのは簡単ですし、
実際に口にしてしまったこと、結構あると思うんです。
「現状認識」という点ではOKなのですが、
「〇〇がない」という言い方で得られるものはなんなのか、
同時に考えておく必要があります。
せっかく残されたもの、与えられたもの、
あるいは手にしているものがあるのです。
自分の持っているものが理想を満たさないからと言って「ないものも同然」に扱ってしまえば、
本当は出来たかもしれないこと、
出来なくても明日になら繋がりそうなこと、
こんなことの芽をつぶしてしまうことになりかねません。
「全て出し切る」とか「絶対に諦めない」という考えが全てではありません。
しかし、「可能性を自ら放棄している」と知れば、
「〇〇がない」という言い方は、とても勿体ないと思えるハズなんです。
たとえレベルが低くとも、余程知恵を絞るか他人の力でも借りない限り、
そのレベルから始めるしかありません。
冷静に考えればわかるハズです。
そこを、「〇〇がない」と追い込んだところで、
なんにも待っているものはありません。
論より実行です。
「〇〇がない」と言いそうになったり、実際に言ってしまった時。
試しに、「〇〇がある」と、嘘でも口にしてみて下さい。
「〇〇がある部分」なんて、頭が勝手に探してくれます。
きっと自分が持っているものも、捨てたものではないと思えます。