このところずっとニュースでもネットでも騒がれている大津市のいじめ事件。
学校どころか教育委員会から警察まで、どうも対応がおかしくて、誰が見ても隠ぺい、もしくはうやむやにしたいのだろうなぁ・・というのが見え見えですね。
おかげで、ますます話はこじれて、加害児童やその親の実名、仕事、転居先まで公開され、とんでもないことになっているようです。
最初からきちんと対応して、見て見ぬふりをせず、圧力とかにへつらうことなく、本当の意味で子供たちを守る姿勢があれば、被害者も加害者も出ることはなかったはずですよね。
そして、はからずもこの悲劇が生じてしまった時に、学校も教育委員会も、警察も、もちろん加害児童の親もその事実に向き合っていれば、こんな形で犯罪者のようにネット上で追い掛け回されることもなかったのでしょう。
こんな形で断罪されるべきではないし、誤った形での報道や制裁に対しても、きちんと対応すべきですが、それをすべき警察もまた、全くの逃げ腰であり隠ぺい体質なので、取り締まる立場としては、とても弱い立場に立たされています。
最初のSOSにきちんと向き合ってさえいれば、こんな悲劇は起きなかったはず・・。
日本は、そんな過ちをどれほど繰り返してきたのでしょうね。
いじめ、ストーカー、DV・・・
そのたびに、警察は後手後手に回って、挙句の果ては社員旅行なので後回しにした、なんてことさえありました。
子どもだってそうです。
親によるDVやネグレクトで、「おかしい、危険だ、」という声を聴きながら、日本の制度の中で、たった一枚のドアを開くことなく、立ちはだかった親の言いなりで踵を返して、何人の子供が死んでいったのでしょうか。
助けられたはずの子供たちを、みすみす見殺しにしてしまう。
こんなバカげたことが、あるのでしょうか。
最近関わっている困難ケースでも、児童相談所の姿勢を見ては、「なるほど、こうして手遅れになるのか・・」というのがよくわかります。
それでもここでは、それをさせない地域の人たちの力もあります。
なんとか目の前で危険にさらされている子供たちだけでも、救おうとしている人たちもいるのが救いです。
本人の意思の尊重などと言って、バカげた理由をまことしやかに主張したり、時期を見て納得できるよう、皆様のお力を借りて・・なんて調子のいいことを言ったりしながら、時間ばかりが費やされるわけです。
一般に、DVを受けている子供は、「親にやられた。」とは言いませんし、DVをする親は子供を手離すことを拒否します。
愛憎は表裏一体だし、愛情があるから養育できるとも限らないのです。
その駆け引きは確かに難しく、大きな責任がのしかかります。
その責任を背負う気概があるのか、のらりくらりと時期を延ばすのか。
去年「ドンキホーテ」という番組をやっていました。
児童相談所が舞台で、ドタバタでありながら、現代の問題にも触れていました。
母子分離のデメリットを重々承知の上、自らの責任で分離した所長の苦悩と、親から引きはがされ、一時は恨みながらもやがて成長し、今ある自分を大切に出来るようになった少女が描かれていました。
そんなきれいごとではいかないけれど、誰かがやらなければならないことを、屁理屈つけて後回しにすることなく、手遅れにならないように決断できる場所であるはずなのです。
なんだか、ニュースを見ながら、会議でのやり取りを思い出して、ちょっと腹が立ってしまいました。
子どもたちを守るのは、周りの大人の責任です。
親が果たせなければ地域が、そこも無理なら国が守らなければなりません。
時に非情に見えても、将来を見据えて考えることが必要なのです。
厳しさと優しさは、愛情に裏打ちされてこそ示せるものなのだと実感しました。
学校どころか教育委員会から警察まで、どうも対応がおかしくて、誰が見ても隠ぺい、もしくはうやむやにしたいのだろうなぁ・・というのが見え見えですね。
おかげで、ますます話はこじれて、加害児童やその親の実名、仕事、転居先まで公開され、とんでもないことになっているようです。
最初からきちんと対応して、見て見ぬふりをせず、圧力とかにへつらうことなく、本当の意味で子供たちを守る姿勢があれば、被害者も加害者も出ることはなかったはずですよね。
そして、はからずもこの悲劇が生じてしまった時に、学校も教育委員会も、警察も、もちろん加害児童の親もその事実に向き合っていれば、こんな形で犯罪者のようにネット上で追い掛け回されることもなかったのでしょう。
こんな形で断罪されるべきではないし、誤った形での報道や制裁に対しても、きちんと対応すべきですが、それをすべき警察もまた、全くの逃げ腰であり隠ぺい体質なので、取り締まる立場としては、とても弱い立場に立たされています。
最初のSOSにきちんと向き合ってさえいれば、こんな悲劇は起きなかったはず・・。
日本は、そんな過ちをどれほど繰り返してきたのでしょうね。
いじめ、ストーカー、DV・・・
そのたびに、警察は後手後手に回って、挙句の果ては社員旅行なので後回しにした、なんてことさえありました。
子どもだってそうです。
親によるDVやネグレクトで、「おかしい、危険だ、」という声を聴きながら、日本の制度の中で、たった一枚のドアを開くことなく、立ちはだかった親の言いなりで踵を返して、何人の子供が死んでいったのでしょうか。
助けられたはずの子供たちを、みすみす見殺しにしてしまう。
こんなバカげたことが、あるのでしょうか。
最近関わっている困難ケースでも、児童相談所の姿勢を見ては、「なるほど、こうして手遅れになるのか・・」というのがよくわかります。
それでもここでは、それをさせない地域の人たちの力もあります。
なんとか目の前で危険にさらされている子供たちだけでも、救おうとしている人たちもいるのが救いです。
本人の意思の尊重などと言って、バカげた理由をまことしやかに主張したり、時期を見て納得できるよう、皆様のお力を借りて・・なんて調子のいいことを言ったりしながら、時間ばかりが費やされるわけです。
一般に、DVを受けている子供は、「親にやられた。」とは言いませんし、DVをする親は子供を手離すことを拒否します。
愛憎は表裏一体だし、愛情があるから養育できるとも限らないのです。
その駆け引きは確かに難しく、大きな責任がのしかかります。
その責任を背負う気概があるのか、のらりくらりと時期を延ばすのか。
去年「ドンキホーテ」という番組をやっていました。
児童相談所が舞台で、ドタバタでありながら、現代の問題にも触れていました。
母子分離のデメリットを重々承知の上、自らの責任で分離した所長の苦悩と、親から引きはがされ、一時は恨みながらもやがて成長し、今ある自分を大切に出来るようになった少女が描かれていました。
そんなきれいごとではいかないけれど、誰かがやらなければならないことを、屁理屈つけて後回しにすることなく、手遅れにならないように決断できる場所であるはずなのです。
なんだか、ニュースを見ながら、会議でのやり取りを思い出して、ちょっと腹が立ってしまいました。
子どもたちを守るのは、周りの大人の責任です。
親が果たせなければ地域が、そこも無理なら国が守らなければなりません。
時に非情に見えても、将来を見据えて考えることが必要なのです。
厳しさと優しさは、愛情に裏打ちされてこそ示せるものなのだと実感しました。