食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

アステカの食とチナンパ-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(2)

2021-04-24 19:55:27 | 第四章 近世の食の革命
アステカの食とチナンパ-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(2)
コロンブスがアメリカ大陸に到達した頃の中南米において勢力を誇っていたのが「アステカ帝国」と「インカ帝国」です。アステカ帝国はメソアメリカであるメキシコ中央高原に築かれ、インカ帝国は中央アンデスである現代のペルー・ボリビア・エクアドルにまたがる地域で栄えていました。

この2つの帝国ではヨーロッパ人が驚くほどの高度な農業が営まれていました。2つの国では「水」の使い方が非常にうまかったため、作物の生産性がとても高かったのです。

今回はメソアメリカのアステカ帝国における食と農業について見て行きます。

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アステカ帝国は、15世紀前半から1521年までメキシコ中央高原に栄えたメソアメリカ文明に属する国家だ。アステカについてお話する前に、メソアメリカ文明について古代から見て行こう。

メソアメリカのメキシコ湾岸部では、紀元前1200年頃から紀元前後にかけてオルメカ文明と呼ばれる古代都市文明が栄えた。オルメカ文明ではさまざまな石像が作られ、絵文字や数字、暦などが発達していた。

一方、メキシコ中央高原では紀元前2世紀頃から7世紀頃にかけてテオティワカン文明が繁栄した。この文明は巨大な「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」などの石造建造物で有名であり、この古代都市には20万もの人々が住んでいたと言われている。


太陽のピラミッド(Michal JarmolukによるPixabayからの画像)

また、4世紀から9世紀にかけてユカタン半島ではマヤ文明が栄えた。マヤ文明では巨大な石造りのピラミッド神殿が築かれ、神々への供物として人間を「生贄」としてささげていた。なお、人を生贄にすることは当時のメソアメリカ文明や中央アンデス文明で広く見られた習慣だった。

7世紀頃から11世紀頃にかけて、メキシコ中央高原にはトルテカ文明が栄え、その影響を受けてマヤ文明は衰退した。そして11世紀頃からメキシコ北部の遊牧民チチメカ族が南部に移動して支配力を強めたが、その一部族であるアステカ族が建てたアステカ帝国が15世紀前半からメソアメリカにおける最大勢力になる。

アステカはメキシコ中央高原のテスココ湖内のテノチティトラン島を首都とした。その最盛期には当時の世界最大規模である30万人もの人口をかかえていたと言われている。なお、メキシコの首都であるメキシコシティはテスココ湖を含む盆地にあるが、現在のテスココ湖はほとんどが埋め立てられてしまっている。

アステカ帝国の主食はトウモロコシであり、日本のコメと同じように神聖視されていた。トウモロコシの穀粒の一粒一粒を大切にし、一粒でも捨て去ることは決して無かったと言われている。

メソアメリカではトウモロコシは主に植物の灰汁につけてから調理を行った。アルカリ性の灰汁につけることですり潰しやすくなるとともに、タンパク質などの栄養素が吸収しやすい形状に変わったり、灰汁中のミネラルが補充されたりするのだ。また、防腐効果もあったとされている。

灰汁につけたトウモロコシは粥か少しすり潰して蒸し団子(タマルという)にするか、しっかりとすり潰してから薄く延ばして焼いた「トルティーヤ」にして食べた。なお、様々な具をトルティーヤに乗せて二つに折ったものをタコス、巻いたものをブリートという。


タコス(JaimeAPによるPixabayからの画像)

アステカではこのほかに、インゲンマメ、カボチャ、トマトや、テスココ湖で獲れるエビ類などを食べていた。また、飲料としてはリュウゼツランから醸造されるプルケと呼ばれる酒が主なものだったが、重要な儀礼や祭事ではカカオから作られたショコラトルがふるまわれた。

香辛料としては主にトウガラシが使用され、また香料としてバニラも珍重されていた。ちなみに、トウガラシとバニラはショコラトルにも入れられていたと記録されている。

ところで、世界有数の人口を誇るアステカの都市を支えたのが「チナンパ」と呼ばれる農法だ。

チナンパとは湖や沼の上に水草を土台にした人工の浮島で農耕を行う方法で、浮島は水草の上にトウモロコシなどの茎や土、そして水路の底にたまった泥を積み重ねることで作られた。水路の泥は水草や家畜のフンが混ざって発酵したもので、栄養価が非常に高かったのである。

チナンパ農法ではたえず水が供給されると同時に栄養価の高い泥で作物を育てるため、高い収穫量が得られた。例えば、通常の農地ではトウモロコシの収穫量は1ヘクタール当たり3トン程度だが、チナンパスでは5トン程度と著しく多い。

また、年間を通して連続した耕作が可能で、1年間に3~4種類の作物が同じチナンパで栽培された。このような連続栽培を行うために作物ごとに苗床が準備されており、収穫が終わるとすぐに次の作物の苗が植えられることで効率的な耕作が可能だったのだ。

ちなみに、アステカ帝国が成立する以前からテノチティトラン島内にはチナンパが作られていたが、アステカが覇権を握るとチナンパの造成を推進することで増え続けた人口を養ったと言われている。中でもテスココ湖の南部にはたくさんのチナンパが造成されて、アステカの一大穀倉地帯となった。

ヨーロッパ人によって征服されてしまうアステカだが、農業に関してはヨーロッパよりもずっと進んでいたのである。