食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

江戸時代の砂糖-近世日本の食の革命(11)

2022-02-05 22:33:15 | 第四章 近世の食の革命
江戸時代の砂糖-近世日本の食の革命(11)
私は毎日、NHKの朝ドラ『カムカムエヴリバディ』を楽しく視聴しています。このドラマでは「小豆の餡子(あんこ)」が重要なアイテムになっています。小豆の餡子は和菓子には欠かせないもので、小豆餡の誕生が和菓子のはじまりと言う人もいるほどです。

小豆餡は小豆を砂糖と一緒に炊くことで作られます。この砂糖には、単に甘みの元になるだけでなく、保存性を高めるという大事な役割があります。つまり、小豆餡のお菓子が比較的長持ちするのは、砂糖のおかげなのです。

砂糖には高い保水効果があります。砂糖は水にはおおよそ倍の量が溶けることができますが、これは砂糖の高い保水効果のためです。そして重要なことは、このように砂糖に結び付いた水は、細菌などには利用できない水であることです。このことが、砂糖が食品の保存性を高める理由の一つとなっています。例えば、ジャムには30%程度の水分が含まれていますが、大量の砂糖の存在によって細菌類が利用できない形になっているため、ジャムは長持ちするのです。

また、砂糖にはデンプンの劣化(専門的には「老化」と呼びます)を防ぐ効果もあり、これが食品の保存性を高める2つ目の理由です。このデンプンの老化防止効果も砂糖の保水性が関係しています。

穀物やイモ類などに含まれているデンプンはベータ型と呼ばれるパサパサとした消化吸収の悪い形ですが、水を加えて加熱することによって、しっとりとした消化吸収の良いアルファ型に変化します。

ところが、アルファ型のままで放置すると、水分が抜けることによってデンプンはベータ型に戻ってしまいます。しかし、砂糖が存在すると、水分を保持することで、ベータ型に戻るのを防ぐというわけです。餡子の柔らかさがしばらく変わらないのも、ようかん(羊羹)が風味を損なわずに長持ちするのも、このためです。

砂糖には保存性を上げる効果以外にも、水分量を高めることで食品にしっとり感を与えたり、プリンなどでタンパク質が局所的に固まるのを防ぐことでなめらかさを増したりする効果などがあります。

今回は、このような砂糖の江戸時代の様子を見て行きます。



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今では沖縄奄美などの南西諸島や、讃岐などでサトウキビが栽培されて砂糖が生産されているが、国内産の砂糖が流通し始めるのは18世紀になってからであり、それまでは外国から砂糖が持ち込まれていた。

室町時代までは砂糖は中国から輸入されていたが、その量は限られていた。ところが、16世紀半ばから南蛮貿易が始まると、まとまった量が継続して輸入されるようになり、砂糖の国内利用も広がって行った。

江戸時代初期には年間100トンほどの砂糖が輸入されていたが、輸入量は次第に増えて行き、18世紀半ばになると1000トンを超えるようになったと言われている。また、その頃には中国からの輸入量も増えており、合わせて2000トン前後の砂糖が輸入されていた。

なお、砂糖の値段だが、1690年頃の小売価格は、1キログラムあたり160文ほどと言われている。1文は現代の10~30円ほどなので、1600円~4800円の計算になる。これは現代の価格の数倍から10倍くらいになり、それほど高くない。

ところが、1697年からは輸入商品に対して高い関税がかけられるようになり、砂糖の小売価格は1キログラムあたり700文ほど(現代の7000円~20000円ほど)に高騰した。これでは、なかなか一般庶民には手が出ない。

一方、18世紀なると、国内で砂糖の生産が始まり、少しずつ国内に流通し始める。

琉球は1623年に中国に使者を送って砂糖の製造方法を学び、砂糖を作り始めた。この砂糖の製造は18世紀初頭にかけて奄美諸島などの南西諸島に広く伝わり、日本での砂糖生産の拠点となって行った。

沖縄を含めて南西諸島を支配していた薩摩藩は南西諸島の黒砂糖を独占することで莫大な富を得た。南西諸島の農民にサトウキビの栽培を強制するとともに、出来上がった黒砂糖を安く買い上げ、それを大阪で高く売り渡したのだ。

一方、それ以外の地域でも砂糖の生産が始まる。その立役者は暴れん坊将軍の吉宗だ。

徳川吉宗は様々な有用な植物の栽培を奨励した将軍として知られている。吉宗は1727年にサトウキビの苗を琉球から取り寄せ、諸藩に栽培を推奨するとともに、自らも浜御殿(浜離宮)の農場で栽培させた。そして、その2年後には砂糖の生産に成功する。

この成功をきっかけに日本の各地で砂糖生産の試みが続けられたのだ。その結果、1790年になって四国の讃岐で白砂糖の生産に成功する。そして18世紀の終わりには大阪での販売を開始した。

讃岐(高松藩)では新しい精糖技術の開発が進められた。そして、精糖作業を繰り返すことで、上質な白砂糖である「和三盆」の作り出すことに成功した。

なお、この「和三盆」の名前だが、中国の白砂糖の名前に由来している。中国産の砂糖には等級があり、上から三盆・上白・太白と呼ばれた。これに倣って、日本でも最上級の砂糖を「和三盆」と呼んだのである。なお、現代でも使われている「上白糖」と言う言葉もここから来ている。

以上のようにして砂糖の国内生産量が増えて行き、1840年頃には輸入量を上回るようになった。そして、小売価格も大幅に下落して行き、一般庶民も砂糖を思う存分使えるようになった。