食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

宮廷料理の登場-イスラムの隆盛と食(5)

2020-10-19 12:10:06 | 第三章 中世の食の革命
宮廷料理の登場-イスラムの隆盛と食(5)
アッバース朝(750~1258年)においては、1000年頃までにイスラム世界で初めての高級料理が確立されました。この料理を食べたのはイスラムの指導者であるカリフたちです。今回は、このイスラム初の高級料理について見ていきましょう。

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もともとアラブ人たちは、ナツメヤシ、ヤギやヒツジなどのミルク、オオムギなどを材料に作られたかなりシンプルな料理を食べていた。バグダッドの宮廷料理人たちはこれをベースに、ペルシアや古代メソポタミア、ギリシア、インドの高級料理を積極的に取り入れて宮廷料理を作り上げて行った。

前回お話ししたように、イスラム世界では古代ギリシアの医学理論が活用されており、「健康的な食事」=「おいしい食事」だった。そして、美味しい料理を食べることは天国の片鱗に触れることだと考えられていた。

イスラムの高級料理にはは欠かせなかった。肉を食べることは男性的であるとされ、力の象徴であったのだ。特にヒツジの肉が好まれ、焼くかロースト(あぶり焼き)するか、スープで煮込んで供された。スープにはハーブや香辛料、砂糖が入れられたり、小麦粉でとろみがつけられたりしていたそうだ。一般的に、高級料理になるほどたくさんの香辛料を使用した。また、ナッツやヒヨコマメをペースト状になるまで煮込んで作ったソースを肉に添えたものも出された。味付けは酢が入って酸っぱくなっているものが好まれたらしい。

中東で好まれるヒツジは尾に脂肪を大量にため込む種類のもので「脂尾羊 (fat-tailed sheep)」と呼ばれる(下図)。中東の人々は脂肪分がたっぷりの肉が大好きらしく、紀元前から飼育され続けている。


脂尾羊のイラスト

ヒツジ以外には、ヤギ、ニワトリ、アヒル、ガチョウ、ハト、ウズラなどの肉も食べられていた。なお、アル=アンダルス(イベリア半島)では現地でたくさん獲れたウサギの肉もよく食べられたそうだ。

穀物の中ではコムギが最も良いものとされていて、都市部ではいたるところで水車がコムギを挽いていたという。金持ちは発酵させたパン生地をインドから導入されたタンドーリ窯で焼いて食べた。小麦粉からはパスタのような麺も作られて食べられたらしい。

小麦粉はお菓子の材料としてもよく利用された。アラブ人は甘いものが大好きで、たくさんの種類のお菓子が作られていた。小麦粉を練って発酵させた生地を油で揚げてからシロップに浸したり、砂糖をまぶしたりしたお菓子が好まれた。また、ミルクと砂糖を煮詰めて作ったクリームをパンケーキに詰めて食べた。ジャムやゼリー、シャーベットも女性に喜ばれていたようだ。

小麦粉以外にはコメを使ったお菓子も作られた。コメに砂糖を入れて煮て作ったライスプティングや、コメをサフランやターメリックと一緒に煮て黄色に着色したお菓子も作られた。

さらに菓子職人は、砂糖の加熱時間を変えることで、透明になったり褐色のカラメルになったりすることを見つけた。このカラメルを作る技術は十字軍によってヨーロッパにもたらされ、フランス菓子の技法の一つになったそうだ。

また、蒸留技術によってバラや柑橘系のフルーツの香りを抽出し、お菓子や料理の香りづけをしていたという。

以上のように調理された料理は様々な木々や花々、果物が植えられた庭園に運ばれた。庭園の一角には絨毯(じゅうたん)が敷かれ、料理の皿は絨毯の上に置かれたスフラと呼ばれる食卓に並べられる。そして列席者は片膝を立てたり、胡坐をかいたりして車座に座った。

ムスリムの伝統では料理は個々の皿には分けられず、大皿に盛られて出されるのが普通だった。銘々は皿に手を伸ばして食べ物を直接手に取って食べた。イスラムの戒律では左手は不浄であり、食べ物は右手の親指、人差し指、中指の三本の指を使って食べた。

このように手食であったことから、手をきれいにすることはかなり重要であった。このためイスラム世界では石鹸の作製技術が発達したようだ。石鹸は油にアルカリ(通常は水酸化ナトリウム)を反応させることで作られるが、7世紀頃にムスリムによって石灰石を用いて水酸化ナトリウムを作り、それから石鹸を作成する方法が確立された。この石鹸の作製法が8世紀頃にイベリア半島に持ち込まれ、その後ヨーロッパに広まることになる。なお、シリア北部のアレッポでは、現在でも当時の方法でオリーブオイルから石鹸が作られている(アレッポ石鹸として知られている)。

食事が終わると宴会が開かれた。現代のイスラム教では飲酒は禁止されているが、初期のイスラム教ではワインは普通に飲まれていたらしい。ワインが入った盃を持つのはやはり右手だった。皆が飲んでいる時には詩が朗読されたという。しかし、このような飲酒はイスラム教では次第にタブーとして禁じられるようになる。

砂糖の帝国-イスラムの隆盛と食(4)

2020-10-17 16:08:34 | 第三章 中世の食の革命
砂糖の帝国-イスラムの隆盛と食(4)
私は甘党です。甘くないケーキは食べません。この甘さの元は言うまでものなく「砂糖」です。砂糖は様々な料理や飲料に加えられて人類を喜ばせてきました。
今回は、砂糖の存在を広くヨーロッパに広める要因を作ったムスリムのお話しです。

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サトウキビは現在のニューギニア島付近が原産地とされており、紀元前6000年前後にインドや東南アジアに広まったと考えられている。そしてインドで砂糖の精製法が発明されたと言われている。


サトウキビ(Albrecht FietzによるPixabayからの画像)

この製糖の技術は7世紀の初め頃にインドからササン朝ペルシアに伝わった。そして、その後中東を支配したイスラム勢力下で10世紀までには東地中海沿岸地域とヨルダン川渓谷、さらにはエジプトへと拡大した。その後、12世紀頃までには北アフリカやイベリア半島のアンダルシア、キプロス島やシチリア島などの地中海諸島、さらにはマデイラ島やカナリア諸島などの大西洋の温暖な島々でもサトウキビの栽培と製糖が行われた。中でもエジプトのナイル流域が当時の最大の砂糖生産地であったと考えられている。

エジプトでは2~3月に植え付けられたサトウキビは夏を過ぎると2~3メートル以上にも成長し、12月頃に刈り取られたという。刈り取られたサトウキビはすぐに処理をしないとダメになる。農場近くの製糖場に運び込まれたサトウキビは細かく刻んでから牛を用いた石臼で圧搾された。しぼり出された液汁は大釜に集められ煮詰められる。煮詰まったところで砂糖の細かい粉を入れると結晶ができて来る。これを底に穴があいた円錐形の壷に注ぎ込み、液体を除去することで褐色の粗糖の固まりが作られた。この粗糖を水に溶かして煮沸し、先の工程を繰り返すと、上質の白い砂糖が得られるのである。14世紀頃の記録によると、当時のエジプトの首都フスタートには65の製糖場があり、王侯貴族などの有力者だけでなく、ムスリムやユダヤ教徒の商人もその経営に熱心に携わっていたという。

ムスリム商人は砂糖の貿易も盛んに行っていた。カーリミー商人と呼ばれるムスリムの交易商人たちは、12世頃からアラビア半島南端のアデンでインドから運ばれてきた中国産の絹織物・陶磁器やインド・東南アジア産の香辛料などを買い付け、紅海を通ってエジプトまで運び、そこでエジプト産の砂糖や小麦、紙、ガラス製品などを加えてイタリア商人に渡していた。イタリア商人はその引き換えに、綿織物・木材・鉄・銅・武器・奴隷などをイスラム側にもたらしたという。13世紀には、ジェノヴァ・ヴェネツィア・ナポリなどの地中海貿易を担っていた諸都市は、この貿易のためにエジプトの各地に商館を建設したとされている。
(*イタリア商人の活躍については、この後の「中世ヨーロッパの食」で詳しく取り上げる予定です。)

一方、11~13世紀の十字軍の遠征も砂糖をヨーロッパの人々に広める要因となった。この十字軍の活動によって、ヨーロッパ人は製糖技術を始めとするイスラムの新しい知識や技術を学ぶことができたのである。エルサレムを占領したヨーロッパ人はムスリムから製糖技術を教わり、帰国時にサトウキビを持ち帰ったという。こうして、ヨーロッパ人も気候の暖かい地中海沿岸でサトウキビ栽培と製糖を始めた。

さて、砂糖の生産が盛んになったとは言え、まだまだ砂糖は貴重なものだった。このため、イスラム世界でもヨーロッパでも砂糖は食品としてよりも薬として使われることが多かった。

「イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)」でお話ししたように、イスラム世界は古代ギリシア文明を進んで取り入れた。ギリシアでは食品の医学的効用について研究が進んでいて、この考え方がイスラムに引き継がれた。ちなみに、古代ギリシアの医学では、人間の体は血液質・粘液質・黄胆汁質・黒胆汁質の4つの要素からできていて、これらの調和が健康をもたらすと考えられていた。そして、それぞれの食品には、この4つの要素に及ぼす効果があるとされていた。

このようにイスラムに引き継がれたギリシア医学の中での砂糖の効用について見てみよう。13世紀にシリアで活躍した医者のイブン・アンナフィースは彼の主著である『医学百科全書』において、砂糖の効用について次のようにまとめている。

「砂糖は脳の調和を保って穏やかに作用する。また、まぶたの炎症を治すための薬が砂糖から作られる。砂糖は胃の粘液を取り除いてきれいにする。また肝臓の入り口を開き、きれいにする。しかし、古い砂糖は不純な血液を生じさせる。砂糖には利尿の効果があり、バターと一緒に飲めばさらに著しい効き目を発揮する。また、砂糖は喀血・呼吸困難・喘息・息苦しさに効果がある。さらに肋膜炎や肺炎に効き、胸から膿を排出させ、胸や肺の炎症を取り除く。」

現代では砂糖が生活習慣病の根源のように言われることが多いが、まだまだ栄養状態が悪く砂糖が貴重だった古代や中世においては「砂糖は薬」という考えが受け入れられていたのだろう。嗜好品としての砂糖が世界を席巻するのは、ヨーロッパがアメリカ大陸を再発見した後のことである。

イスラムの農業革命-イスラムの隆盛と食(3)

2020-10-15 23:00:44 | 第三章 中世の食の革命
イスラムの農業革命-イスラムの隆盛と食(3)
今回はイスラム帝国での農業技術の革命について見て行きます。
もともとアラブ人は農作物があまり育たない乾燥地帯で生活していました。農耕ができるのはオアシスぐらいでした。それが、広大な土地を支配することによって作物を育てることができる土地を大量に手に入れたのです。ここに科学技術の進歩が組み合わされることで、農作物の大量生産に成功するのです。

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イスラム科学が発展してゆくと、実用的な技術もイスラム社会に広く普及することになった。その一つが新しい農耕技術だ。この技術のおかげで食料生産量が増えてより多くの人口を養えるようになり、さらなる文明の繁栄をもたらすことになった。そのため、この新しい農耕技術の開発は「イスラムの農業革命」と呼ばれる。

農業革命を生み出した要因の一つが植物学の進歩だ。それぞれの農作物について、適した土壌や育てる季節、必要な水分量などが詳しく調べられた。また、接ぎ木の技術も盛んに研究された。こうして効率よく農作物を育てることができるようになった。

農業革命を起こす上で最も重要だったのが灌漑技術の進歩である。カナートの技術は古くから知られていたが、それに加えて、高い位置に水を運ぶ技術が生み出された。この技術によって、広大な土地に水を運ぶことができるようになったのだ。

これは「水汲み水車」または「ノーリア(noria)」と呼ばれるもので、垂直に立てられた車輪にバケツがくくりつけられており、車輪を回転させると水面下に入ったバケツに水が入り、高いところで用水路などに水を流し出すようになっている。中世のイスラム帝国では直径が20メートルにもなるノーリアが使われていたそうだ。また、イベリア半島のバレンシア地方にはイネを育てるためのノーリアが8000もあったという。


スペインのノーリア(Falconaumanni撮影)

ところで、水は高いところから低いところに流れるので、広い土地に効率よく水を運ぶためには、それぞれの場所の高さが詳細に分かっていないとだめだ。この点でもムスリムは優秀だった。彼らは「三角法」を用いて正確な測量を行ったのだ。三角法は三角形の角度と辺の長さを研究する数学の一分野で、ムスリムはインドからその基礎を学んでさらに発展させることで高度な三角法の理論を生み出した。

このように、数学の進歩に果たしたムスリムの役割はとても重要で、私たちが普段使っている「0, 1, 2, 3 …」のアラビア数字も、アラブ人がインドの「ゼロ」の概念を取り入れて作ったものだ。これがイベリア半島に持ち込まれ、16世紀中頃のヨーロッパで、それまで主に使われていたローマ数字に代わってアラビア数字が使用されるようになる。

ところで、このような有用な知識は広く活用されなければあまり意味がない。イスラムでは、新しく得られた知識は書物としてまとめられ、主要な都市に送られて多くの人の目に触れるようになっていた。このように新しい知識を迅速に活用する体制が整っていたのだ。

ムスリムが作り出した新しい農業技術は、イベリア半島(現代のスペイン・ポルトガル)を通してヨーロッパに導入される。ムスリムはイベリア半島の各地にノーリアを作り、集中的な灌漑設備を整えて行った。また、ヨーロッパ固有の農作物に加えて、コメ、ほうれん草、ナス、ニンジン、アーティチョーク、ザクロ、モモ、サフラン、サトウキビなどのアジア原産の農作物をイベリア半島に持ち込み、それぞれに合った土壌で栽培を行ったと言われている。また、大量の家畜も飼育されるようになった。

このような大規模な農業改革の結果、イベリア半島の食料生産性が向上し、人々の生活が豊かになったと言われている。このようにムスリムによって持ち込まれた農業技術は、現在でもスペイン農業の基礎となっている。

イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)

2020-10-13 23:23:18 | 第三章 中世の食の革命
イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)
古代における高度な文明と言うと、第一にギリシア文明があげられる。古代ギリシアの文明はローマ帝国においても模範とされていた。このギリシア文明を受け継ぎ、さらに発展させたのがイスラム帝国である。

ギリシアにおいて文明の担い手となった学者たちはお互いに切磋琢磨しながら、自らの専門とする道を極めて行った。例えば、哲学者のソクラテスやプラトンは現代でも多くの人にその名が知られており、またプラトンの弟子である哲学者・自然科学者のアリストテレスは万学の祖とも言われる。一方、ヒポクラテスは「医学の父」と呼ばれ、「人生は短く技術は長い」という彼の言葉はとても有名である。この「技術」を「芸術」に置き換えた言葉「人生は短く芸術は長い」は、誤訳によって生まれたものと言われている。

このような高度な学問が醸成される上で、学者同士の対話や議論、そして教育はとても重要である。プラトンが紀元前387年に創設した学園「アカデメイア」はまさしくこのような役割を担っていた。アリストテレスもアカデミアで学んだ一人であり、多くの優秀な学者を生み出した学問のメッカだった。

アカデメイアはギリシアがローマによって征服されたのちも存続したが、ローマ帝国がキリスト教を国教にしてからしばらくすると、キリスト教の思想以外を教える学校の閉鎖政策によって529年に約900年の歴史に幕を閉じた。その結果、多くの学者は活動する場所を失ってしまったのだが、そんな彼らを受け入れたのがササン朝ペルシアだった。ササン朝はチグリス川流域の首都クテシフォンの近くのグンデシャープールに哲学や医学、科学の研究施設を設立して彼らの活動を援助した。この施設では、ギリシア人以外にインド人や中国人の医者や学者、技術者が招かれて研究が行われていたと言われている。

640年頃にイスラム勢力によってグンデシャープールが征服されるが、その後もこの研究施設は生き延びた。そしてアッバース朝になると、首都バグダードに新しく設立された学院に統合されたようだ。こうしてイスラム帝国ではバクダードが学問の中心となる。

アラビア半島から出てきたアラブ人が出会った新しい学問には、哲学や論理学、幾何学、天文学、医学、博物学、地誌学、植物学、錬金術などがあった。このような新しい学問を広めるために、ギリシア語からアラビア語への翻訳が盛んに行われた。中でも、第7代カリフのマアムーン(在位:813~833年)は「バイト・アル=ヒクマ(智恵の館)」と呼ばれる大きな図書館を備えた研究施設をバクダードに作り、たくさんの科学者を集めて翻訳と研究を行わせた。こうして10世紀から11世紀には、イスラムの科学は空前の発展を遂げた。

その中で、食にも関係ある化学の分野について見て行こう。

化学は、安い金属(卑金属)を金に変えようとした「錬金術」から生まれた。錬金術は古代ギリシアや古代エジプトで生まれたと考えられており、その起源はかなり古い。この錬金術がイスラム帝国で大きく発展し、「化学」と呼べる学問が誕生するのだ。

錬金術師たちはさまざまな物質について実験を繰り返し、酸やアルカリなどの単離などに成功している。このような化学技術の中でも「蒸留」技術の進歩は、食の世界で特に重要である。なお、蒸留についてはインダス文明やメソポタミア文明においても知られており、技術的には古くからあるものだったが、イスラム帝国において技術的に確立するのだ。

8世紀の錬金術師ジャービル・イブン・ハイヤーンは金や白金を溶かす王水(塩酸と硝酸の混合物)を考案したことで有名だ。また彼はアランビックと呼ばれる蒸留装置を考案したと考えられている。


     アランビック

9世紀には錬金術師のアル=キンディがアルコールを初めて蒸留したと言われている。また、彼は、バラの花からバラの香りを含んだオイルを蒸留によって精製する方法についても記している。彼の本には100を越える香水の調合法が紹介されている。

そして11世紀になって、コイル状のパイプを用いた冷却槽が発明され、効率よく蒸留が行えるようになった。パイプの中に水を流すことで、アルコールの蒸気などを急速に冷やして液体にすることができるのである。

やがて、イスラムの科学はヨーロッパに伝えられることになり、ヨーロッパの科学が発展する要因の一つとなった。蒸留技術もヨーロッパで広がり、ブランデーなどの蒸留酒が作られるようになる。

ところで、アラビア語で錬金術を意味する「al-kīmiyā」は英語の錬金術「alchemy」の語源となっており、ここから「al」が取れて「chemistry(化学)」という言葉が生じた。「al」は英語の「the」に相当するアラビア語の定冠詞で、「アルコール(alcohol)」は「さらさらしたもの」を意味するアラビア語の「アル=コホル(al-khwl)」が語源とされる。

このように、イスラム科学の歴史的な重要性は明らかのように思えるが、欧米ではイスラムの科学の重要性は過小評価されているようである。

アッバース朝と交易路の発達-イスラムの隆盛と食(1)

2020-10-10 18:39:46 | 第三章 中世の食の革命
3・2 イスラムの隆盛と食
アッバース朝と交易路の発達-イスラムの隆盛と食(1)
今回は、イスラム帝国の最盛期であるアッバース朝のお話です。この王朝期には中国とイスラム帝国を結ぶ広大な交易路が完成し、豊富な物資が東西を行き来しました。そして、この頃は、食文化を含む様々な文化が世界規模で伝わった時代でもあります。

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ウマイヤ朝はアラブ人のための国家であり、同じイスラム教徒でも非アラブ人には満足のゆく世界ではなかった。例えば、アラブ人なら免除されていた人頭税(ジズヤ)や地租(ハラージュ)などの税が非アラブ人には納める義務があり、かなりの負担になっていた。これは「ムスリムは平等」というイスラムの教えにも反しており、非アラブ人には政府に対する不満がたまっていた。

一方、シーア派はずっとウマイヤ朝と対立を続けており、また、人々の間にもムハンマドの子孫がカリフを務めるべきだという考えが根強くあった。

このような状況をうまく利用して反乱を成功させたのが、ムハンマドの叔父の子孫のアッバース家である。彼らの戦略は巧妙で、自らは先頭に立たずに「皆がふさわしい人を指導者に」というスローガンを広めることで人々を反乱へと誘導した。シーア派にしてみれば、アッバース家に協力して王朝転覆が成就した暁には、ムハンマドの娘婿アリーの子孫がカリフになるはずであった。

こうしてイラン東部で蜂起した反乱軍はウマイヤ軍を破りながら西進し、749年にイラクの州都であるクーファを占領した。そして翌年には、アブー・アルアッバース(在位:750〜754年)がカリフとなった。アッバース朝(750〜1258年)の始まりである。

ウマイヤ朝打倒に協力したシーア派であったが、当初の目論見どおりには行かなかった。アッバース朝は政権を安定化させるために多数派であったスンニ派と手を結び、シーア派を厳しく弾圧するようになったのだ。そのため、アリーの子孫であったイドリースは北アフリカ西部のモロッコに逃げ延び、そこでイドリース朝(788~985年)を興すことになった。これがシーア派最初の王朝である。

また、ウマイヤ家の王家の一人だったアブド・アッラフマーンもイベリア半島に逃げ延び、独自の王朝である後ウマイヤ朝(756~1031年)を開いた。

アッバース朝の話に戻ろう。

ウマイヤ朝はアラブ人だけを優遇するアラブ人のための国家であったが、アッバース朝ではイスラム教徒(ムスリム)の全員に地租(ハラージュ)だけを課すようにして、イスラム教徒であればみな平等という政策をとった。このようにアッバース朝はアラブ人のための国ではなく、イスラム教徒の国と言えることから「イスラム帝国」と呼ばれることが多い。

アッバース朝は、ウマイヤ朝時代の北アフリカ西部やイベリア半島を失ったが、東は唐と国境を接するところまで進出する。そして、751年に唐との間で「タラス河畔の戦い」が起きた。この時にアッバース軍が捕虜とした唐軍の兵士の中に製紙技術を有する職人がいて、イスラム世界に製紙技術が伝わることとなった。この結果、アッバース朝では製本が盛んになり、現存する最古の料理本である『キタブ・アル=タビク(Kitab al-Tabikh)(料理の本)』を始めとするたくさんの料理書も出版された。

なお、製紙技術はその後イスラム勢力の支配地内を西進し、北アフリカを通って12世紀にはイベリア半島に伝えられ、14世紀にはヨーロッパ全域で紙の製造が始まることになる。

イスラム教では商売が奨励されており、アッバース朝の成立前後からアラブ人やイラン人などのムスリム商人による交易が盛んになった。彼らは中国やインド・東アジア、アフリカ、ビザンツ帝国などに出向いて交易を行うと同時にイスラム教を布教した。

ムスリム商人は中国からは陶磁器・絹織物などを、インド・東アジアからは香辛料・香料などを、アフリカからは金・奴隷などを、そしてビザンツ帝国からは絹織物などをイスラム世界にもたらした。これ以外に食品では、インド方面からレモン・オレンジ・バナナ・マンゴーがこの時期にイスラム世界に持ち込まれ、やがてヨーロッパにももたらされることになる。

アッバース朝の首都はチグリス川流域のバクダードだった。この地は初代カリフによって「世界の交差点」と呼ばれたように海の道と陸の道が集約する地で、交易に非常に適していた。ムスリム商人は、ラクダを使ってシルクロードなどの陸の道を通ったり、ダウ船と呼ばれる三角帆をつけた船で海の道を進んだりして交易を行った。中国や東アフリカの交易都市にはムスリム商人の居留地が造られ、自治権も認められていたという。



さらにバグダードは肥沃なチグリス川流域の中心に位置していたこともあり、短期間のうちに急速に発展した。アッバース朝最盛期の第5代カリフ・ハールーン(在位:786~809年)の時代には人口は150万人にも及び、世界最大の都市となった。市場には世界各地の品々が満ちあふれていたという。このような発展につれて、バグダードには学者や技術者などもたくさん集まるようになり、イスラムの高度な文明が開花して行くことになる。