食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

香辛料を探し求めた男たち-大航海時代のはじまりと食(4)

2021-04-11 00:03:26 | 第四章 近世の食の革命
香辛料を探し求めた男たち-大航海時代のはじまりと食(4)
ポルトガルやスペインの海外進出の最大の目的は「金儲け」でした。海外から金目の物を持ち帰って、自国や外国に売って大儲けをしようとしたのです。そのような金目の物の中でも筆頭に挙げられるのが「香辛料」でした。

香辛料はヨーロッパ人にとってなくてはならないものでした。香辛料は肉の保存のためや肉の臭みを消すために必要だったと言われることが多いですが、第一の理由は香辛料が「薬」として使用されていたからです。現代のような優れた医薬品が無かった当時は、香辛料は体の調子を整えるための貴重な薬だったのです。

しかしその頃は、オスマン帝国がアジアとの香辛料貿易を支配していたことから、ヨーロッパに入って来る香辛料はごくわずかで、また価格も高騰していました。このため、アジアからヨーロッパに直接香辛料を運んでくれば、莫大な富を生み出すことができると考えられたのです。

こうして多くの海の男たちが香辛料目当てで大海原に乗り出して行ったのですが、彼らがアジアに向かう上で貴重な情報源となったのが、マルコ・ポーロの体験談を記述した『東方見聞録』でした。この書物には、東アジアのモルッカ諸島で大量の香辛料が生産されていることが紹介されていました。大航海時代の初期には、多くの冒険者たちがこのモルッカ諸島を目指して船を走らせたのです。

今回はモルッカ諸島、通称「香辛料諸島」をめぐる熱き戦いの歴史を見て行きましょう。

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マルコ・ポーロ(1254~1324)はイタリアのヴェネツィアの豪商の子として生まれた。1271年(17歳の時)に父と叔父とともに東方への旅に出発し、1275年には元の首都の大都にやって来てフビライと会見した。すると、フビライはマルコ・ポーロらを大いに気に入り、彼らを臣下として身の近くに置くこととした。マルコ・ポーロは中国各地や周辺国に派遣され、その様子をフビライに報告したが、その話を聞くのをフビライはとても楽しみにしていたという。

17年間元で過ごしたのち、マルコ・ポーロらは中東イル・ハン国の后となる王女一行の案内役として出国する。王女を無事に送り届けたあとマルコ・ポーロらは1295年に祖国ヴェネツィアに戻る。この時マルコ・ポーロは40歳を越えていた。

彼らが帰国してから3年後に、ヴェネツィアはジェノヴァと交戦状態に入る。マルコ・ポーロは志願兵として戦ったが、ジェノヴァ軍に捕らえられ捕虜となった。その収監中に彼は他の捕虜や看守たちにアジアへの旅の話を聞かせたのだが、聴衆の一人だった著述家のルスティケロ・ダ・ピサはその話を書き留めて一冊の本を作った。それが『東方見聞録』である。                       
『東方見聞録』では、インドやモルッカ諸島(香辛料諸島)などの香辛料、アジアの絹織物、黄金にあふれたジパング(日本)など、富を求める人々の興味を引く話がちりばめられていた。コロンブスも『東方見聞録』を熱心に読み込むことで、モルッカ諸島を発見するという野望を強くしたと言われている。

現在はインドネシア共和国に属するモルッカ諸島は、古代からコショウ以外の香辛料の一大産地であり、アジア諸国との香辛料貿易で栄えていた。13世紀になるとイスラム商人がこの地に進出してきて、次第にイスラム諸国や東地中海への香辛料貿易を支配するようになった。なお、東地中海に運び込まれた香辛料はヴェネツィア商人に手渡され、彼らがヨーロッパでの貿易を独占していた。



なお、イスラム商人は香辛料の産地に関して一切明らかにしなかったため、ヨーロッパ人にとって香辛料を生み出すアジアは神秘のベールに包まれた地だったのだ。そのような中で『東方見聞録』はアジアの情報を与えてくれる貴重な存在だった。そしてこの本がアジアへの大航海を推進する大きな力を与えた。

ジェノヴァ人のクリストファー・コロンブス(1451年頃~1506年)は、ヨーロッパから西向きに航海を続ければ必ずインドやモルッカ諸島、ジパング(日本)などに到達できると考えて綿密な計画を練り上げた。これを各国の王室に披露して協力を求めたところ、最終的にスペインのイザベル女王の後ろ盾を得て1492 年に第一回目の大航海の旅に出ることができた。しかし、彼が行きついたのはアジアの前に横たわるアメリカ大陸だったのは承知の通りだ。

ちなみに、アメリカ大陸には「オールスパイス」という香辛料があり、16世紀中頃にヨーロッパに紹介されることになるが、コロンブスは発見者の栄誉に浴することはなかったようだ。なお、オールスパイスの名は、シナモン・ナツメグ・クローブを合わせたような芳香がすることから来ている。

当時のヨーロッパ人で最初にインドに到達したのがペーロ・ダ・コヴィーリャというポルトガル人だった。彼はポルトガル国王から地中海を経由してインドに行くことを命じられ、1488年に無事にインド西南のカリカット(現在のコージコード)に行きついた。そして、インドから西のイスラム諸国に向かって、大量の香辛料や宝石、陶磁器などの貿易が行われていることを知ることになる。この情報は本国に伝えられ、ヴァスコ・ダ・ガマのアジア航路の開拓に活かされた。

ヴァスコ・ダ・ガマ(1460年頃~1524年)はポルトガル国王の命を受けて東回りの航路を突き進み、1498年にインドのカリカットに到達した。しかし、彼がポルトガルから持って行った贈り物はとても貧弱であったことから国王たちに信用されず、人質を取ったり、追って来る船に砲撃を加えたりしながらやっとのことでポルトガルに帰還した。

ガマが開拓したアジア航路を使って最初にポルトガルに大量の香辛料を持ち帰ったのが青年貴族のペドロ・アルヴァレス・カブラルだ。彼は武装した艦隊を引き連れてインドに向かい、途中でブラジルを発見しながら1500年にインドに到達した。しかし、現地のイスラム商人といざこざが起こり、彼の艦隊はカリカットの町を砲撃して瓦礫の山にしてしまう。すると、その南のコチンの領主は砲撃を恐れて大量の香辛料の売買に応じ、それを1501年にリスボンに持ち帰ったのである。

さらに1502年にはヴァスコ・ダ・ガマが2度目のインドへの航海を行った。彼も武装した大艦隊を率いてインドに到達し、武力によってインド各地を制圧しながら要塞や商館を建築して行った。そして、彼が去ってもインド洋に艦隊を常駐させることで、ポルトガルによる支配を確実なものにして行ったのである。なお、ガマは1524年にはインド総督としてゴアに派遣され、その年に死去している。

こうしてインドの支配を強めたポルトガルは、コショウ以外の香辛料がモルッカ諸島(香辛料諸島)で産出されていることを知り、モルッカ諸島にも進出することで香辛料貿易の独占を進めて行った。

一方、スペインはモルッカ諸島への西廻りの航路の開拓を進めていた。モルッカ諸島の正確な位置が不明で、ポルトガルとスペインの間で世界を二分することを定めていたトルデシリャス条約ではどちらの国に属するかが明確になっていなかったからだ。

西廻りの航路で最初にモルッカ諸島に到達したのはフェルディナンド・マゼラン(1480~1521年)が率いた船団だった。マゼランはポルトガル人で、インドにおけるポルトガルの支配拡大に活躍したにもかかわらず正当に評価されなかったため、スペインに移ってきたのだ。

スペイン王室に命じられたマゼランは5隻の船団(乗員270人)で1519年8月10日にスペインのセルビアを出発する。船団はアメリカ大陸の南端を目指して南下し、1520年10月20日に太平洋に抜ける「マゼラン海峡」を発見した。それから太平洋を横断して1521年3月にグアム島に到達する。

その後マゼランはフィリピン諸島のセブ島で現地人と戦い戦死したが、残された船団は苦労の末に1521年11月にモルッカ諸島(香辛料諸島)に到達した。そして1522 年9月6日に船団のうち1隻の船だけがスペインにたどり着く。3年前に出発した270人のうち世界周航を成し遂げたのはたったの18人だった。しかし、彼らが持ち帰った香辛料は莫大な富をもたらしたと言われている。

マゼランたちが命がけで開拓したマゼラン海峡を経由する航路は、その困難さから放棄されることになる。しかし、モルッカ諸島をめぐる争いはイギリスやオランダも参加して激しさを増していくことになるが、その話はまた後日だ。

大航海時代の帆船-大航海時代のはじまりと食(3)

2021-04-07 23:02:08 | 第四章 近世の食の革命
大航海時代の帆船-大航海時代のはじまりと食(3)
人類は様々な道具を作り出してきました。そのような道具の歴史を眺めていると「必要は発明の母」という言い方はもっともだなと思うことがよくあります。今回は大航海時代の初め頃に使用された帆船を取り上げますが、それらが生み出された経緯を見ると、当時の帆船も必要に迫られた結果生まれてきたことがよくわかります。

なお、今回は番外編のようなもので、食の話はほとんどありません。

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大航海時代の初め頃に主に使用されていた帆船のタイプは、「カラック船」と「カラベル船」と呼ばれるものだった。コロンブスがアメリカ大陸を発見した航海では、1隻のカラック船(サンタマリア号:コロンブスの乗船)と2隻のカラベル船(ピンタ号とニーニャ号)が使われた。マゼランの世界一周ではビクトリア号(マゼランの乗船)を始めとする5隻のカラック船が使用された。

一般的にカラック船は大きく、船底が平らで大量の荷物が乗せることができたが、小回りが利きにくいという欠点を持っていた。一方のカラベル船はカラック船より小型のものが多く、速度も速くて小回りも利いたため沿岸の浅瀬や河川を探検することが可能だった。このため、物資などの輸送目的にはカラック船が主に使用され、探検が主になる時はカラベル船が使われた。以下にカラック船とカラベル船について詳しく見て行く。

大航海時代の大量輸送を支えたカラック船
カラック船は海外進出に注力していたポルトガルが15世紀に開発したヨーロッパで最初の遠洋航海用の帆船だった。カラック船は大航海時代を代表する帆船となり、15~16世紀にはポルトガルとスペインなどで盛んに建造された。

カラック船の特徴は次の通りだ。

・全長と全幅の比は3:1で船体は丸みをおびてずんぐりとしており、大量輸送に適した広い船倉を持っていた。
・3~4本のマストを持ち、前方のマストには四角形の横帆(おうはん)が張られ、後ろのマストには三角形のラテンセイルと呼ばれる縦帆(じゅうはん)が張られた。
・船尾中央舵を有した。
・船首と船尾に船楼と呼ばれる家のような複層の構造物が設置されていた。


カラック船(サンタマリア号)

カラック船は北欧のコグ船と呼ばれる帆船と南方の帆船の長所を組み合わせることで生み出された。コグ船は、北欧のヴァイキングが使っていた「クリンカー造り(clinker-built)」(板の一部を重ね合わせて張る構造)を受け継いだ中型の帆船で、13世紀~15世紀にハンザ同盟などによって主に近距離貿易で使われていた。

  
コグ船

コグ船からカラック船に受け継がれたのが「四角形の横帆」「船尾中央舵」「船楼」である。

「横帆」とは、船首と船尾を結んだ線に垂直に張られた帆のことだ。横帆は追い風(順風)をしっかりと受け止めて強い推進力を生み出すため、外洋などで常に進む方向に向かって風が吹いている時に最も活躍する。しかし向かい風(逆風)ではほとんど機能しなくなる。また、大きくなると扱いにくくなるので、大型帆船では一つのマストの上下に2枚以上の横帆を張るようになった。

「船尾中央舵」はその名の通り、船尾の中央に固定された舵(かじ)のことで、12世紀の終わり頃に発明されてコグ船に導入されたものだ。それまでの舵は船尾の両側に吊るされていたオールで、曲がりたい側のオールを海水に沈めて抵抗を生み出すことで方向を変えていた。船尾中央舵が取付けられたことによって、船を旋回させたり直進させたりが容易になった。なお、中央舵の舵輪は船尾楼に設置されていた。

また、「船楼」には大砲が置かれていて、防御や攻撃のための役割を果たしていた。海面からかなり高い位置に大砲があるため、敵が小舟に乗って襲ってきても攻撃を受けにくいし、逆に攻撃しやすいという利点があった。ポルトガルがアジアに拠点を築く上で、この船楼の大砲がかなり活躍したと言われている。

一方、南方の船から受け継いだのが船体の外板が「カーヴェル造り(carvel-built)」であることと、三角形の「縦帆(ラテンセイル)」だ。

外板の「カーヴェル造り」は8世紀頃から地中海を航行する船に用いられていた工法で、図のように板を平らに張り合わせていくやり方だ。先のコグ船の外板の「クリンカー造り」に比べて、同じ量の木材を使うとカーヴェル造りの方が大きな船を作ることができるのだ。これがカラック船に導入されることで広い船倉を確保することができた。

「縦帆(ラテンセイル)」とは、船首と船尾を結んだ線に垂直に張られた帆のことだ。

縦帆は横帆に比べて風の力を推進力に変える効率が低いものの、向かい風(逆風)でも船をジグザグに進ませることで風上に向かうことができる。また、船を旋回させることで舵の役割もする。このように縦帆が登場したことによって、人類は海の上を自由に航行できるようになった。なお、縦帆はアラブ人が開発・発展させたものをイタリアのジェノヴァ人やヴェネツィア人が広く使用したことから「ラテンセイル」と呼ばれた。

カラック船では横帆と縦帆を組み合わせることで、どのような状況でも船を目的地に向かって進ませることができた。こうして生み出されたカラック船はその積載力を生かして軍艦としても商船としても大活躍した。

冒険者のためのカラベル船
カラベル船はもともとポルトガルの沿岸部で使用されていた漁船をベースに15世紀に開発されたもので、次のような特徴を持っていた。

・小型の帆船で、船体は木の板が平たんになるように並べられた「カーヴェル造り」で作られた。
・2~3本のマストを持ち、縦帆である三角形のラテンセイルが張られていた。
・船尾中央舵を有した。
・船楼は持たなかった。


カラベル船

カラベル船がポルトガルで開発されたのは、彼らがアフリカ西岸を南下してアジアへの航路を開拓していたからだ。アフリカ西岸を南下するときは追い風(順風)だが、帰りは向かい風(逆風)になるためラテンセイルが適していたのである。アジアへの航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマもカラベル船を多用した。

喜望峰を回ってアジアへの航路が拓かれると追い風の場合に備えて、横帆を張るための4本目のマストが追加されたり、メインマストに横帆を張ったりするようになった。

大航海時代の初め頃はポルトガルやスペインの探検家は主にカラック船を用いていたが、未知の海域を調査するという目的にはカラベル船の方が適していることが認知されるようになって、こちらの方をメインに使用するようになった。つまり、カラベル船は操舵性と速度に優れ、運用にカラック船ほどの人員が必要がなかったため、冒険者にとっては最適な帆船だったのである。

大航海を支えた保存食-大航海時代のはじまりと食(2)

2021-04-03 23:38:53 | 第四章 近世の食の革命
大航海を支えた保存食-大航海時代のはじまりと食(2)
大航海時代に帆船でヨーロッパからアジアやアメリカに行くには長い時間がかかりました。例えば、コロンブスはアメリカ大陸への航海を4度行っていますが、いずれも片道に2カ月ほどを要しています。かかった時間と距離から計算すると、1日100 km進むのがせいぜいだったようです。

このような長い航海で問題になったのが食料です。当時は冷蔵庫が無かったため、高い気温でも長期間にわたって保存できる食べ物が必須でした。それでは、当時の海の男たちは船の上で何を食べていたのでしょうか?

今回はこのような長期間の航海を支えた食について見て行きます。

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ヨーロッパから中南米に行くのにも喜望峰を回ってアジアに行くのにも、高温の熱帯の海域を通る必要がある。さらに海の上なので湿度も高い。こんな悪環境で長持ちする食品はなかなかなかった。

陸上の一般的な保存食であった塩漬けの肉や魚は長くはもたなかった。これらは高温多湿の状態では次第に腐り始め、ウジがわいてドロドロになったそうだ。

また、炭水化物源として積まれていたものが「ビスケット」だが、これもコクゾウムシがわいたりネズミに食べられたりしたそうだ。なお、ビスケットは二度焼きにしたパンのことで、現代の乾パンに近いものだった。堅くて不味くて、船乗りに嫌われていたそうだ。

このような中で最も長く保存できたものが「タラの干物」だ。タラと言っても日本で食べるマダラやスケソウダラとは別の種類のタイセイヨウダラという魚で、脂分が少なく乾燥させるとカチコチに固くなって長期保存ができるようになるのだ。日本でもマダラを乾燥させたボウダラが伝統的な保存食になっている。



タイセイヨウダラの干物には身をそのまま天日で乾燥させたストックフィッシュと、軽く塩漬けしたあと乾燥させたソルトフィッシュの2つがある。

ストックフィッシュは10世紀以前からノルウェーの北西部で作られるようになり、ヴァイキングの航海時の重要な食料になっていた。14世紀にはハンザ同盟がストックフィッシュの貿易を独占するようになり、同盟の重要な交易品になっていた。なお、ストックフィッシュという名前は、タラが「ストック」と呼ばれる木製のラックに吊り下げられて干されたことから付いた。

一方のソルトフィッシュは主にイギリスで作られたもので、とれたタラを船上で軽く塩漬けにし、港に戻ってから天日干しして作った。ソルトフィッシュはストックフィッシュよりも保存性が良く、大航海時代に重宝されるようになる。

ストックフィッシュとソルトフィッシュには、軽くてかさばらないので保管しやすいという利点もあった。こうしてストックフィッシュとソルトフィッシュは大航海を支える重要な保存食となったのである。「タラが無かったら大航海時代は来なかった」と言われることがあるが、これはまんざら誇張でもないようだ。

さて、カチコチのストックフィッシュやソルトフィッシュを食べるには下処理が必要だった。日本でボウダラを調理する時には水に何日もつけて柔らかくするが、同じようにストックフィッシュやソルトフィッシュもトンカチなどでたたいて小さくした後に布袋に入れてから海水につけることで柔らかくした。それから肉のように焼いて食べるのが一般的だったらしい。

ところで、コロンブスの次に新大陸に到達したのはカボットというヴェネツィア人で、彼はイギリスの商人から依頼を受けて西方への航路を開拓した。実は彼が目指したのはジパング(日本)だったが、コロンブスと同じようにアメリカに行きついてしまったのだ。彼が到達したのは、コロンブスが着いたところよりも北の、おそらく現在のカナダ沿岸だと考えられている。そこで彼が見たのが海を泳ぐ大量のタラだった。この発見以降、カナダ沖のタラはヨーロッパ諸国の争いの元となる。そして、最終的に勝利したのはイギリスだった。

タイセイヨウダラは現在でも南ヨーロッパやイギリスで人気がある魚で、ポルトガルでは毎日違う料理を作れるほどタラを使ったレシピが豊富と言われている。また、イギリスのスナックの定番である「フィッシュ・アンド・チップス」もタラとポテトをフライにしたものだ。これらの国々ではタラの料理は国民食と言っても良いかもしれない。