食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ウィンナーシュニッツェルとフリターテンズッペを作りました

2021-08-13 20:14:27 | 世界の料理を作ってみよう
お盆ということで、のんびりと料理を作りました。
作ったのはウィーン料理のウィンナーシュニッツェルとフリターテンズッペです。

ウィンナーシュニッツェルは、ステーキ用の牛のモモ肉をたたいて薄く延ばし、塩コショウして衣をつけて油で焼き上げます。最後にバターで風味付けして出来上がり。



やはり、レモンが合いますね。しっかりと美味しかったです。

フリターテンズッペは、小麦粉・卵・牛乳を混ぜたものをフライパンで焼いたものを太い麺状に切って、スープを注いで出来上がりです。



もう少し薄く焼いた方が、スープが絡んで良かったと思います。

このほかにポテトサラダを作って晩御飯にしました。

ウィーン料理の始まり(1)-近世のハプスブルク家の食の革命(2)

2021-08-10 17:15:14 | 第四章 近世の食の革命
ウィーン料理の始まり(1)-近世のハプスブルク家の食の革命(2)
今回から2回にわたって、有名なウィーン料理について、その起源を探って行きます。

ウィーン料理はハプスブルグ家が宮廷を築くことで発展しました。その特徴は、前回お話したように、いろいろな国の料理が取り入れられていることです。

ウィーン料理が影響を受けたとされている国は、イタリア、ドイツ、ギリシア(ビザンツ帝国)、チェコ、ハンガリー、オスマン帝国、フランスなどがあります。このうち、イタリア、ドイツ、ギリシア(ビザンツ帝国)からは早い時期からの影響が見られますが、チェコ、ハンガリー、オスマン帝国、フランスについては、近世の中頃以降から影響を受けるようになります。

今回は、近世の早い時期から食べられている料理を中心に見て行きますが、やはりイタリアなどからの持ち込まれた料理が元になっているようです。

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・ウィンナーシュニッツェル(ウィーン風カツレツ)


Anna JurtによるPixabayからの画像

「ウィンナーシュニッツェル(Wiener Schnitzel)」は、ウィーンを代表する料理で、いわゆるカツレツのことだ。少し厚めの仔牛肉をしっかりたたいて薄く引き延ばし、表面に小麦粉・卵・パン粉を順番につけて、浸るくらいのラードでこんがりときつね色に焼き揚げ、最後に溶かしバターを塗る。レモンをしぼって食べるが、肉はとても柔らかく、レモンとの相性も抜群である。

このウィンナーシュニッツェルという料理名は19世紀に登場したことが分かっているが、料理自体はそれより以前から作られていたと考えられている。一説では、14~15世紀に北イタリアから伝わったとされる。北イタリアのミラノには豚肉で作った「ミラノ風カツレツ」があり、これを元にウィンナーシュニッツェルが作られるようになったのではないかということだ。

また、ビザンツ帝国やスペインにもウィンナーシュニッツェルに似た料理が古くからあることから、このうちのいずれから伝わったという説もある。

バックヘンデル(ウィーン風フライドチキン)


juergen 4711 による Pixabayからの画像

「バックヘンデル(Viennese Backhendl)」とはウィーン風のフライドチキンのことだ。

調理法は次の通りだ。

1年ほど飼育した鶏肉を4等分して表面に塩と香辛料をすりこむ。さらに、小麦粉・卵を塗って薄めにパン粉をつけ、カリカリになるまで油で揚げる。昔のレシピでは、胃袋や肝臓などの内臓もパン粉をつけて揚げていたが、現代では食べなくなった。

バックヘンデルという料理名は1817年に初めて登場したが、同じような調理法が17世紀の終わりの料理本に記載されていることから、少なくとも17世紀中には考案されていた料理だったと考えられている。19世紀になって、ウィーンの宮廷では簡素な料理が好まれるようになってから、バックヘンデルの人気が急上昇したと言われている。

牛肉スープ

ハプスブルクの宮廷では、牛肉と野菜を煮込んで作ったスープを食べる習慣が16世紀のフェルディナント1世(在位:1526~1564年)からずっと続いていた。特に、レオポルト1世(在位:1657~1705年)は牛肉スープが大好きで、食事の間は途切れることが無くスープが供されていたという。それ以降の皇帝もみんな牛肉スープが好きで、マリア・テレジア(在位:1740~1780年)もいつも美味しそうに牛肉スープを食べていたと伝えられている。

牛肉スープに入れられる具材も様々なものが考案された。ここで、現代のウィーン料理でよく食べられている2つのスープ料理を紹介しよう。

一つ目は「フリターテンズッペ(Frittatensuppe)」と言う料理だ。


フリターテンズッペ(Alyson Hurtによるflickrからの画像)

これは、細切りしたクレープ(フリターテン)を牛肉スープに入れた料理のことだ。17世紀の終わりに出版された料理本にこのレシピが記載されている。なお、「フリターテン」という言葉は、イタリア語の「Frittata(パンケーキ)」が語源と言われている。

フリターテンズッペは、オーストリアでは最も人気のあるスープ料理で、日本での味噌汁のようなものと言える。現代のウィーン料理では、スープはチキンスープや野菜スープなど牛肉以外でも良いとされる。

二つ目は「グリースノッケルズッペ (Grießnockerlsuppe)」だ。マカロニコムギ(グリース)で作った団子(ノッケル)が入った牛肉のスープ(ズッペ)と言う意味だ。


グリースノッケルズッペ

まず、溶かしたバターにマカロニコムギを入れ、混ぜながら少しずつ卵を加えてこねる。そして、スプーンですくって塩水でゆがくことで団子ができる。これを牛肉スープに入れて出来上がりだ。

同じような団子入りの牛肉スープには、牛の肝臓の団子を入れた「レバークネーデルズッペ(Leberknödelsuppe)」があり、こちらもウィーンのレストランでは定番の料理となっている。

このようなスープの具材が多く考案されたのが17世紀から18世紀のことで、上記以外に、通常の肉の団子やベーコンの団子、肺の団子などが当時の料理本に記載されている。また、シンプルなものとしては蒸したオオムギがあり、先述のレオポルト1世も好んで食べていたらしい。

オーストリア系ハプスブルク家-近世のハプスブルク家の食の革命(1)

2021-08-06 22:13:32 | 第四章 近世の食の革命
オーストリア系ハプスブルク家-近世のハプスブルク家の食の革命(1)
今回から近世の中欧と東欧の食のシリーズが始まります。最初は、現在のオーストリア・チェコ・ハンガリーなどを支配したオーストリア系ハプスブルク家について見て行きます。

オーストリアの首都はウィーンです。世界最高峰の楽団ウィーンフィルを擁するなどして「音楽の都」と言われるウィーンは、お菓子でも有名で、「菓子の都」と呼ばれることもあります。その代表的なお菓子が「ザッハートルテ」と言うチョコレート菓子です。これは、チョコレートケーキをチョコレートが入った砂糖の衣(フォンダン)でコーティングした、とても甘くて、とても濃厚なお菓子です。


ザッハートルテ

また、ウィーンは料理でも有名で、仔牛肉を使ったカツレツの一種「ウィーナーシュニッツェル」は今でもオーストリアで一番人気の料理です。

ウィーンは1278年からハプスブルク家が支配するようになりました。しかし、その頃のハプスブルク家はまだまだ弱小貴族でした。その後ハプスブルク家は次第に勢力を拡大させ、15世紀半ばからは神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲するようになります。そしてウィーンには宮廷が建てられ、神聖ローマ帝国の首都としての役割を果たすようになります。

第1回目となる今回は、オーストリア系ハプスブルク家について概略を見て行きます。

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ハプスブルク家は、最初は現在のスイス北部を領地としていた小貴族だった。この地には、1020年頃に建てられたハプスブルク城が今でも遺されている。
ハプスブルク家の躍進の始まりは、家長のルードルフ1世が1273年に神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれたことだ。

神聖ローマ帝国内には200以上の公国や騎士領、司教領、自由都市などがあり、それぞれが独立国のような存在だった。その代表としてローマ教皇を守護するのがローマ皇帝だ。ローマ皇帝は、選帝侯という3人の聖職者と4人の世俗君主による選挙によって選ばれる。ルードルフ1世が選ばれたのは、野心のない凡庸さが選帝侯には都合が良かったからだと言われている。

ルードルフ1世は決して無能ではなく、反乱を起こした貴族を鎮圧し、彼の領地だったオーストリアなどを自分のものにする。こうして、ハプスブルク家は旧領を離れてオーストリアに定住するようになった。

ルードルフ1世の息子もローマ帝国皇帝となるが、ハプスブルク家の野心が恐れられたのか、その後しばらくは皇帝に選ばれず、地方の一領主に甘んじるしかなかった。ところが1440年になると、ハプスブルク家のフリードリヒ3世が再びローマ帝国皇帝に選ばれる。この時も彼の無能さが選帝侯に気に入られたのだ。実際にフリードリヒ3世は小心者で、戦争が始まるといち早く逃げ出し、敵が去るまで出てこなかったと言われている。

その息子のマクシミリアン(1459~1519年)の代になってハプスブルグ家は大躍進を果たす。彼は裕福なブルゴーニュ公国の姫と結婚することになったのだが、結婚の前にブルゴーニュ公が亡くなってしまった結果、最終的にブルゴーニュはハプスブルク家のものとなったのだ。

さらに、マクシミリアンの息子フィリップがスペインの王女ファナと結婚したことで、スペイン王の座もハプスブルグ家に転がり込む。この結婚から10数年以内にスペイン国王夫妻と王子が亡くなってしまったため、スペイン王は王女ファンとフィリップの子供に引き継がれることになったからだ。

フィリップの長男のカルロス(1500~1558年)は、1516年にスペイン国王カルロス1世(在位:1516~1556年)として即位する。彼はイベリア半島のスペイン本国だけでなく、南ローマとシチリア、そして新大陸の広大な領土を治める王となった。

また、フィリップの次男のフェルディナント(1503~1564年)は、1515年にハンガリー王女のアンナとの婚約が成立したのだが、1526年にハンガリー王子が戦死したため、フェルディナントがハンガリーとそれに帰属するボヘミア(現在のチェコ)の王となったのである。

こうしてハプスブルク家は、中欧と東欧において、元来のオーストリアの領土に加えて、ハンガリー・ボヘミアと言う広大な領土を手中に収めたのである。このようにハプスブルグ家が支配した中欧・東欧の領土をひとまとめにして「オーストリア」と呼んでいた。



スペイン王カルロス1世はオーストリアをはじめとするハプスブルク家のすべての領土を継承するとともに、1519年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世(在位:1519~1556年)となった。そして彼の死後は、スペインとネーデルラントの領土は息子のフェリペ2世が受け継ぎ、オーストリアの領土と神聖ローマ帝国皇帝位は弟のフェルディナント1世(在位:1526~1564年)が継承した。

これ以降ハプスブルグ家は、スペイン系オーストリア系に分かれることになったが、お互いに婚姻関係を結ぶなど良好な関係は続いて行く。しかし、近親婚を繰り返したために身体上の様々な異常が現れるようになり、スペイン系は1700年に断絶することとなった。

ここで、フェルディナント1世以降のオーストリア皇帝をあげておこう。

フェルディナント1世 (1526~1564年)
マクシミリアン2世 (1564~1576年):プロテスタント寄りの政策をとった。
ルドルフ2世 (1576~1612年):政治能力に欠け、占星術や錬金術に没頭した。
マティアス (1612~1619年):兄のルドルフ2世から皇位を奪う。
*新旧キリスト教徒の戦いである30年戦争(1618~1648年)が始まる。
フェルディナント2世 (1619~1637年):戦争を有利に進めるがフランスの参戦で泥沼化。
フェルディナント3世 (1637~1657年):30年戦争に事実上敗北した。
レオポルト1世 (1657~1705年):1683年にオスマン帝国軍がウィーンを包囲した。
ヨーゼフ1世 (1705~1711年):スペイン王位をめぐってフランスと争うが急逝した。
カール6世 (1711~1740年):歴代で最大の領土を築いた。
マリア・テレジア (1740~1780年):父から帝位を譲られるが、プロイセンが介入して戦争になった。
ヨーゼフ2世 (1780~1790年):王権の強化などの急進的な改革を行った。
レオポルト2世 (1790~1792年):ヨーゼフ2世の弟。兄が進めた改革を元に戻した。
フランツ2世 (1792~1835年):ナポレオン軍に敗れることで神聖ローマ帝国が消滅。これ以降は「オーストリア帝国」と呼ばれるようになった。

最後に、フェルディナント1世について食に関する話をしておこう。

彼はスペイン宮廷で生まれ育ち、その後オーストリアにやって来た。この時に取り巻きのスペイン人を一緒に連れてきたため、スペインの宮廷文化の要素がオーストリアに伝えられた。また、スペインが支配していたネーデルラントからは多数の菓子職人を宮廷に招いた。

一方、王妃アンナの故郷のボヘミアではイタリアとのつながりが強く、フェルディナント1世もイタリアの文化を好んだことから、多くのイタリア人がオーストリア宮廷に招かれた。その結果、最先端のイタリア料理やテーブルマナーが宮廷に取り入れられた。

このように、オーストリアの料理の特徴は「多国籍」であることだ。オーストリアは文化の異なる複数の国が集ることでできていたことと、様々な国の料理を積極的に取り入れたことから、オーストリア料理(ウィーン料理)は様々な国の特徴をあわせ持っているのである。

なお、フェルディナント1世は、古くに作られた宮廷晩餐会の作法を再整備したり、1523年にはウィーン初の料理学校を設立したりするなど、オーストリアの宮廷料理の発展に大きな貢献をしたと伝えられている。

香り立つコニャック-フランスの大国化と食の革命(11)

2021-08-02 18:09:59 | 第四章 近世の食の革命
香り立つコニャック-フランスの大国化と食の革命(11)
ブランデーはワインを蒸留して造られるお酒で、フランスのブランデーが質・量ともに世界一とされています。特に有名なブランデーが「コニャック」で、ボルドーの北100㎞ほどにある町コニャックから命名されました。

ボルドーと同じように、コニャックでも古くからワインを造っていましたが、ボルドーのワインの方が有名になったため、あまり売れなくなってしまったのでした。その窮地を救ったのがブランデー造りです。ブランデーが売れるようになったため、コニャックは裕福な町になったのです。

さて、コニャックと言えば、飲んだ後で口や鼻腔に残る芳醇な香りが特徴です。コニャックで栽培されていたブドウはボルドーのものとは違って、酸味が強い種類でした。この酸味が芳醇な香りに重要だったのです。

今回は、コニャックを中心に、近世フランスのブランデー造りについて見て行きます。



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現代では、酸味の強いブドウから造った白ワインを蒸留したのち、オーク(樫)の樽に詰めて2年以上熟成させたものをブランデーと呼んでいる。

また、コニャックは、ユニ・ブランなどの決められたブドウで造った白ワインを、決められた銅製の蒸留器(シャラント式アランビック蒸留器)で2回蒸留し、リムーザンもしくはトロンセ産のオークの樽で2年以上熟成させた原酒をブレンドすることで造られている。4年以上熟成させた原酒からは「V.S.O.P.(Very Superior Old Pale)」などの表示が、10年以上熟成させた原酒からは「XO(Extra Old)」や「Napoleon」などの表示がされたコニャックが造られる。

ブランデーの製造に欠かせないのが「蒸留器」だ。アランビックと呼ばれた蒸留器は、8世紀にイスラムの錬金術師ジャービル・イブン・ハイヤーンが考案したとされている。また、9世紀には同じくイスラムの錬金術師のアル=キンディがアルコールを初めて蒸留したと言われている。

蒸留器はイスラム勢力が支配していたイベリア半島を経由して西ヨーロッパに伝えられた。そして、14世紀にはフランスでブランデーの製造が始まったとされている。しかし、その頃のブランデーは品質が悪く、庶民が飲む安酒だった。

コニャックとともに有名な「アルマニャック」は、ボルドーを流れているガロンヌ川の上流域のアルマニャック地方で造られるブランデーだ。この地方では、15世紀からブランデーの製造が始まったとされている。ボルドーのワイン商人が他の地域のワインの輸送にガロンヌ川を使用することを禁じたことから、ブランデーの製造を始めたと言われている。

アルマニャックのブランデーは最初の頃は品質が悪かったが、製造方法が次第に洗練されて、コニャックに並び立つほどの評価を受けるようになった。アルマニャックでは、アルマニャック式蒸留器と呼ばれる蒸留器で、1~2週間かけてゆっくりと1度だけの蒸留が行われるのが特徴だ。



一方、コニャックで高級酒であるブランデーの生産が始まったのは17世紀になってからだ。そのいきさつは次のようだったと考えられている。

コニャックを含むシャラント地方は古代ローマ時代からブドウの栽培を行っていた。やがて、塩田による塩の生産が盛んになり、この地方のラ・ロッシェル港は塩とワインの交易で栄えた。しかし、ワインの方はボルドーのワインが台頭するにつれて、あまり売れなくなって行った。

宗教革命ののちはコニャックには多くのプロテスタントが住むようになったため、プロテスタントのオランダ商人が取引のために頻繁にやって来るようになった。コニャックでのブランデー造りに大きな役割を果たしたのが、このオランダ商人たちだった。彼らは船を使った長距離の輸送に耐えるような、保存性の高い酒を求めていたのだが、あまり売れていないコニャックのワインを見て、蒸留することを思いついたのだ。近くには広大な森があり、燃料となる木材が手に入りやすいことも好条件だった。

早速蒸留してみたところ、1回の蒸留では美味しい酒はできなかったが、もう1度蒸留してみるとかなり良いものになった。そして、これを近くのリムーザンのオークで作った樽に入れて保存しておいたところ、さらに香り高い素晴らしい酒に変身したのだ。コニャックで栽培されていたフォール・ブランの強い酸味がオークの樽の成分と反応して、芳醇な香りが生み出されたのである。

こうして誕生したコニャックは、体を温めるために強い酒が好まれた北ヨーロッパを中心に愛好家を増やして行った。特にイギリスの上流階級に大人気となり、大部分のコニャックがイギリスに向けて輸出されるようになった。コニャックの等級が「V.S.O.P.(Very Superior Old Pale)」のように英語表記なのは、このような理由からだ。

ブランデー(brandy)」という言葉を造ったのもイギリス人だ。オランダ人が焼いたワインを意味する「brandwijn」と呼んでいたものをイギリス人が「brand wine」とし、さらにそれを略して「brandy」としたとされている。

なお、「ナポレオン(Napoleon)」というブランデーには注意が必要だ。コニャックとアルマニャックでは高品質のブランデーにしか付けられない名前だが、それ以外ではどんな安いブランデーに付けても良いのだ。このため、コニャックとアルマニャック以外のナポレオンは総じて美味しくないのである。