食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

イギリスの砂糖の歴史-イギリスの産業革命と食(3)

2022-03-13 20:16:39 | 第五章 近代の食の革命
イギリスの砂糖の歴史-イギリスの産業革命と食(3)
前回のお話しはイギリスの紅茶の歴史でした。イギリスの紅茶にはたくさんの砂糖が入っていましたが、今回は産業革命期のイギリスの砂糖について見て行きます。

砂糖は最初は高級品で、上流階級の人々しか口にすることができませんでした。しかし、次第に価格が下がるとともに流通量も増えることで、一般家庭に加えて、肉体労働者も朝食と午後の休憩時に飲むことができるようになりました。

今回は、このような砂糖の価格の低下と流通量の増加がどのようにして起こったかを見て行きます。



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ヨーロッパの国々が砂糖の生産を行っていたのがカリブ海の島々西インド諸島)やブラジルなどの南米大陸だった。この地域に最初にサトウキビが持ち込まれたのは15世紀終わりのコロンブス第2回目の航海の時で、スペインが西インド諸島で、またポルトガルがブラジルでそれぞれサトウキビの栽培と精糖を開始した。

最初は現地人(インディオ)を奴隷として使役していたが、虐殺や感染症などのために人口が減少したことから、1570年代からアフリカから連れてこられた黒人奴隷が使用されるようになった。

イギリスはポルトガルやスペインよりも海洋進出が遅れていたが、1560年代から海賊などを使ってカリブ海での勢力を広げて行った。そして1655年にジャマイカを征服し、ここを拠点とすることでバルバドスやグレナダなどの島々を植民地化した。

西インド諸島では、イギリスをはじめとするヨーロッパの国々は、黒人奴隷を使って主に砂糖のプランテーション(単一作物の大農園)の経営を行った。中でもイギリス植民地のジャマイカは西インド諸島で最大の砂糖の生産地に成長する。

こうして1660年代にはイギリスへの輸入品の約1割が砂糖になり、1700年頃には倍増する。また、1700年頃の砂糖の輸入総額が約60万ポンドだったものが、1770年頃には300万ポンドを超えたとされている(川北稔氏の研究より)。それにともなってイギリス人の砂糖の消費量も増え、一般家庭でも砂糖を買うことができるようになって行った。

ところで、プランテーションの経営者はプランターと呼ばれ、砂糖によって莫大な資産を築いていた。プランターたちはプランテーションの管理を現地の支配人に任せ、本国のイギリスに戻って贅沢な生活を送ったという。

18世紀になると、裕福なプランターはジェントリ階級(貴族以外の地主層)に加えられ、下院議員に選出されるようになる。ところが、彼らは自分たちの利益を第一に考えて議員活動を行ったと言われている。

例えば、長く続いたフランスとの戦争の講和条約(パリ条約:1763年)では、イギリスは占領したキューバやマルティニク島を返還しているが、その理由は、砂糖の生産地であったこれらの島々がイギリス領となると、砂糖の価格が下落して自分たちの儲けが減少するからだった。

また、同じ理由で、砂糖の価格が下がらないように砂糖の生産制限を行っていたという。さらに、他国からの砂糖にかけられる関税も高く設定されていた。その結果、イギリス国内の砂糖の価格は他国に比べてかなり割高になっていた。

しかし、この割高の砂糖の価格はある出来事によって引き下げられることになる。それが奴隷制度の廃止だ。

プランターたちは召使として黒人奴隷を西インド諸島からイギリス本国に連れてきていたが、18世紀後半からイギリス国内で奴隷廃止運動が盛んになる。そして1772年にはイギリス本土では黒人奴隷を認めないという判決が下る。さらに1834年にはイギリス領内の奴隷制が法律で禁止されるにいたった。その結果、西インド諸島での黒人奴隷を使役したプランテーションは崩壊した。

このような奴隷制度廃止の裏には、産業革命によって富を蓄えてきた工場主の暗躍があったと言われている。彼らは工場の労働者を働かせるために砂糖入りの紅茶を飲ませていたが、経費を下げるためにその価格を下げたかったのだ。そこで、そのネックになっていた砂糖プランテーションを没落させるために奴隷制度廃止の運動に肩入れしたということだ。

工場主たちは議会に働きかけ、砂糖や茶にかけられていた高い関税も廃止に持ち込んでいる。例えば、茶に課されていた100%という高い関税も1723年に20%に、さらに1745年にはその4分の1に引き下げられた。

こうして、イギリス国内には安い砂糖と紅茶が出回るようになり、工場労働者も毎日砂糖入りの紅茶を飲むようになったのである。

ボルシチを食べました

2022-03-12 22:39:24 | 世界の料理を食べてみよう
本日は妻が作ったボルシチを食べました。
ボルシチはウクライナの伝統的な料理で、赤紫色のビーツを使った煮込み料理です。ビーツ以外には牛肉とジャガイモなどの野菜が入っています。



ウクライナはとても悲惨な状況になっていますが、何とか平和を取り戻してほしいと切に願います。

イギリスの紅茶の歴史-イギリスの産業革命と食(2)

2022-03-10 17:38:17 | 第五章 近代の食の革命
イギリスの紅茶の歴史-イギリスの産業革命と食(2)
イギリスの飲み物と言われると、まっ先に「紅茶」を思い浮かべる人も多いかと思います。

実際に、イギリス人は紅茶を1日に5杯程度飲むと言われており、日本人が毎日たくさんの「緑茶」を飲むのによく似ています。

この緑茶と紅茶は見た目も風味もかなり別物ですが、両者はともにチャノキの葉から作られます。しかし、作り方が異なっているので、色と風味が別物になるのです。

緑茶の場合は、摘んだ葉をすぐに蒸します。こうすることで、茶の葉に含まれる酵素が壊れ、茶本来の風味を楽しむことができるのです。また、色も薄くなります。

一方、紅茶の場合は、積極的に酵素を働かせることで作られます。つまり、摘んだ葉をもむことで酵素をしみ出させ、しばらく置くことで酵素反応を進めます。そうすると、茶の葉に含まれるカテキンなどが酸化され、独特の風味と濃い色合いが生まれるのです。

なお、茶の業界ではこのような酵素による変化を「発酵」と呼んでいます。発酵とは微生物の働きによって食品が変化することですが、茶の世界では微生物が働かなくても発酵と呼んでいるのです。

さて、紅茶はイギリス人のために生み出されたと言っても過言ではありません。

ヨーロッパ人が中国にやってきたときに飲まれていた茶は主に緑茶でした。このため、ヨーロッパに最初に伝えられた茶も緑茶です。ところが、イギリス人が茶を飲むようになると、次第に紅茶が好んで飲まれるようになるのです。

今回は、このようにイギリスの人々が紅茶を飲むようになった歴史について見て行きます。


(Terri CnuddeによるPixabayからの画像)

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を最初にヨーロッパに輸入した国はオランダだ。オランダは1609年に平戸に商館を開き、茶の輸入を始めた。その後もオランダは日本と中国で茶を手に入れ、本国に持ち帰った。17世紀中頃までには、オランダでは上流階級の女性たち間で茶を飲む習慣が根付いたと言われている。ただし、その頃の茶は薬とみなされていたらしい。

イギリスに茶が伝わった正確な年代については分かっていないが、17世紀前半にはオランダから持ち込まれていた可能性がある。記録に茶のことが現れるのは1650年代末になってからのことで、その頃に一部のコーヒーハウスで茶の提供が始まったと考えられている。しかし、その頃の茶はオランダと同じように、薬として飲まれることがほとんどだった。

イギリスで茶を飲み物として楽しむきっかけを作った人物が、国王チャールズ2世(在位:1660~1685年)の王妃として1662年にやってきたポルトガル王女キャサリン(ポルトガル名:カタリナ)だ。キャサリンはポルトガルから中国産の茶と大量の砂糖を持参し、宮廷で毎日砂糖入りの茶を飲むようになったという。すると、貴族たちがキャサリンの真似を始め、彼らの間で茶を飲む習慣が広がって行ったのだ。

さらに、オランダ総督ウィレムの妻だった女王メアリー2世(在位:1689~1694年)もオランダの貴族のように茶をよく飲んだことから、茶を飲む習慣はイギリス宮廷や貴族の間でしっかりと根付くこととなる。

イギリスでは、新しい習慣は上位の階級から下位の階級に広まっていくのが常である。茶を飲む習慣も、貴族階級から高級官僚、そしてジェントリーの間に広まった。そして、ついには一般家庭でも茶が飲まれるようになるが、その立役者となったのがトマス・トワイニングだ。

トマスは、1706年にロンドンでコーヒーハウスをオープンさせたが、彼はその店で茶を飲ませるだけでなく、茶葉の小売りも始めたのだ。茶葉を買えば、いつでも好きな時に自宅で茶を楽しめる。このトマスの試みは大当たりし、茶葉の売り上げはそれ以外の商品の売り上げを上回ったという。この成功を受けて、多くの店で茶葉が販売されるようになり、一般家庭にも茶を飲む習慣が浸透して行くことになる。

さて、18世紀に入ると、イギリスに輸入される茶は緑茶に代わって紅茶が増えてきた。しかし、そもそも紅茶がいつ頃誕生したかについてはよくわかっていない。

発酵させた茶は15世紀頃の中国で誕生したと言われているが、ウーロン茶や紅茶などは、17世紀以降にイギリス人の好みに合わせて、輸出用に作り出されたのではないかということだ。17世紀後半からイギリスの東インド会社が中国産の茶を独占するようになったため、イギリスでよく売れる茶が試行錯誤によって生み出されたと考えられている。

イギリスで紅茶が好まれた理由として、中国とイギリスの「水」の違いがあると言われている。イギリスの水はミネラル分の多い硬水で、緑茶だと色がつくだけで、味と香りがほとんどしないらしい。一方、紅茶などは軟水で入れると風味が強すぎるが、イギリスの水だといい具合にマイルドになるということだ。

こうして、18世紀半ばになると、輸入される茶の大半が紅茶になるとともに、輸入量も順調に増えて行った。また、この頃には夕食の時間が遅くなったことから、お菓子などの軽食と紅茶を飲む「アフタヌーン・ティー」の習慣が定着したとされている。

ところで、イギリスではミルクティー(tea with milk)が一般的だが、この飲み方が広まったのもちょうどその頃だ。その理由としては、一般家庭用に出回っていた低品質の紅茶を美味しく飲むためにミルクと混ぜたという説が有力だ。しかし、この飲み方がイギリス人には一番おいしかったようで、上流階級にも広まった結果、イギリスでの一般的な飲み方になったのである。

さらに時代が進むと、紅茶は産業革命を担った労働者のための大切な飲み物になった。18世紀後半以降の労働者たちは、朝食と午後のティー・タイムには必ず紅茶を飲むようになったのだ。紅茶に入れられた砂糖は働くためのエネルギー源になったし、多く含まれているカフェインも脳を覚醒させて仕事の効率を上げたからだ。

こうして19世紀までに「紅茶」はイギリス社会の隅々にまで定着したのである。