『ゴジラ -1.0』を観てきた。
ゴジラがなぜ日本で受け入れられているか。
70年前から時代に合わせるように変化しながらゴジラシリーズは脈々と作り続けられている。
”科学の進歩は良い面と悪い面がある。映像として出来ることはその二つを忘れさせないために、ゴジラのような作品は作り続けられなければならない”
『大仏廻国』の中で宝田明が語った言葉。
科学の進歩の尖峰に位置する原子力の功罪をゴジラは象徴し続けている存在で、『ゴジラ』から『シン・ゴジラ』までそれは続いている。
最強の生物であるゴジラに対して人は科学を持って挑む。
オキシジェンデストロイヤー、スーパーX、ガルーダ、モゲラ、抗核バクテリア、メカゴジラ、血液凝固剤…。
数々の科学技術でゴジラを封じてきた。しかし、街が復興するとともにゴジラは帰ってきた。何度も襲い、何度も壊し、何度も奪う。ゴジラは天災なのだ。
台風や地震、火山と同じように不幸をもたらす。人は天災を受け入れるしかない。そして、天災が終われば復興を行い、また天災で壊される。日本人は自然災害に対して”しかたがない”と受け入れる柔軟さ(実直さ?)を持っている。
だからだろうか。第二次大戦の終戦も国民はあっさりと受け入れた。しかし忘れたわけでは無い。恨み辛みに我慢を重ねて抑え込んでいただろう。戦争は終わっても、心の中で終わらない戦争がある。
戦争という災厄をやっと乗り越えた先で生まれてしまった今作の『ゴジラ』は、終わらない戦争の中にある者たちがその戦争を終わらせる物語でもある。
だが、天災として、科学の功罪としてのゴジラは、まだ終わっていない。
悲しいことに彼女たちは楽にはシねない。「あのときシんでおけば」と思うぐらいの過酷な生が待っているだろう。
そして、また天災が帰ってくるのだ。
ゴジラという姿形で。
-1.0。
ゴジラは先に突き進む人類を、また後ろに押し戻す。
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