1995年。世相で見ると阪神淡路大震災に始まり、地下鉄サリン事件に代表されるオウムの一連の騒ぎが毎日ワイドショーを騒がせていた。終末的で気味が悪く、それでいて「何か大きなことが起きるかもしれない!」と小学生だった僕は期待していた。
そんな中、テレビシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』は放送された。停滞しているようで不安定な主人公はと死海文書、聖書といった設定はカッコよく映った。
ちょうどポケベル、携帯電話が普及しつつある時期(Win95も発売年)でもあり、知らない誰かと繋がるテレクラや円光のチラシで電柱はいっぱいだった。街が混沌としていてアングラに手を出すのは容易だった。ますます「終」の感じがあった。でも何も起こらなくて、中学は終わり、高専に僕は進学した。
そして、旧劇場版はとんでもない終わり方をした。
でもそれを知ったのは、僕が大人になってからだ。
そのころには世間は真綿で首を絞められるような日本になっていた。
希望がぼやけてくるような毎日。
そこに東日本大震災が起こった。この時からDSSチョーカーが僕たちの首につくことになった。
「一つになろう/頑張ろう日本!!」から外れればドカンだし、原発推進派は喋ったらドカン。指向性が違えば一気に一気に排除される。
そして、見えない繋がりは1995年とは比べ物にならないぐらい強くなり、オフ会という実際のつながりにまで発展できるようになった。
2020年。
コロナ災禍が生活に入り込んできた。
ネットを介した会議が行われるなど、「ちがうだろ…」という働き方改革がまず進み、学校が休校になり、電車の本数が減り、店が早く閉まり、日本は変わってしまった。
今度ばかりは、本当に世界が変わってしまった。
また、「終」が見えてきた。でも、僕は39歳になっていた。
「終」を期待として受け入れるには歳を取り過ぎた。もう、次の世代のことを考えなくてはいけない(独身だけれど)。
そして、『シン・エヴァンゲリオン』で全てのエヴァンゲリオンは終わった。
痛みと苦しさと楽しさ、自分の犯した罪、そして草の匂いを飲み込んで主人公は誰よりも優しくなった。
だから、痛みと苦しさと楽しさ、罪をすべて入った世界を創った。
僕らの世界もあと数年すれば彼の作った世界に似た世界になっていくんだろう。
そのとき言えるだろうか「ありがとう」と。
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