旅行記 第34回 『「Go To トラベル」で行く鎌倉 2日間』 (その5・円覚寺) ⇒ https://blog.goo.ne.jp/taichou-san2014/e/fa2bdab847298cd8a6a1924f45f9f217
この日、参詣した四寺一社(黄色で囲んだ場所)の五番目(行程は黄色矢印)「円覚寺(えんかくじ)」の「総門」を出たのが、14時15分頃です。
横須賀線の踏切を越えます。右手には、「北鎌倉駅」のホームがすぐ先に見えています。
「白鷺池(びゃくろち)」に架かる小さな石橋「偃松橋(えんしょうきょう)」を渡ります。
「鎌倉街道」に出て、改めて振り返りました。昔は、ここまでが円覚寺の境内で、ここからが参道だったのでしょうね。参道の両側は、「白鷺池」のある庭園です。明治22年(1889)の横須賀線の開通によって、美しい景観が破壊されてしまいました。
北鎌倉駅南口に着いたのが、14時20分頃。お昼をだいぶ過ぎています。お昼前に建長寺の休憩所で食べた「鎌倉紅谷」の“クルミッ子”一個とバナナ一本以外に口にしたのは、お茶だけなので、お腹がペコペコです。けれども、駅周辺で食事が出来そうな店は片手に足りないほどしかありません。
お腹が空きすぎていてゆっくり店を選んでいられず、駅前の「やま本(もと)きそば」に入りました。
こじんまりとした店内には、外人観光客の姿もありました。
窓側の席からは、北鎌倉駅に入線する横須賀線の車両も見えました。
頂いたのは、“肉ソバ”700円(税込)。ボリュームたっぷりのソバで、お腹を満たすことが出来ました。
食後、鎌倉街道を鎌倉方向へ戻ります。徒歩約5分で、「東慶寺(とうけいじ)」に到着。
東慶寺は、鎌倉幕府第八代執権・北条時宗の妻である覚山尼(かくさんに)が、弘安8年(1285)に開創された臨済宗円覚寺派の寺院です。女性から離婚できなかった封建時代に、当寺に駆け込めば離縁ができる女人救済の寺として明治に至るまでの600年間、縁切りの寺法を引き継いできました。
明治4年(1871)、廃仏毀釈の影響により縁切りの寺法は廃止となり、明治35年(1902)に尼寺の歴史も幕を閉じました。明治38年(1905)、建長寺・円覚寺両派管長 釈宗演禅師が入寺し、荒廃した当寺を復興し、中興開山となりました。師の高徳ゆえ、門下には政財界人、哲学者、文化人が多く、禅を世界に広めた鈴木大拙もその一人です。大拙はのちに当寺裏山に「松ヶ岡文庫」を設立し、禅文化発展の世界的拠点となりました。
かつては男子禁制の寺として、寺への出入りが厳しく取りしまわれていましたが、戦後は花の寺として境内を整備し、現在では多くの参拝客を迎え入れるようになっています。
おとな二人が通れるほどの石段を上ります。
昔は、鎌倉街道沿いに総門もかまえていましたが、現在は小さな瓦葺き屋根「山門」を残すのみとなっています。
山門をくぐった右手の拝観受付は閉まっています。この日は、拝観料を徴収していませんでした。
目の前には、谷戸と呼ばれる鎌倉独特の地形に境内が広がります。墓苑まで続く石畳を中心に本堂、書院、茶室、宝物館が配置されています。自然豊かな光景が広がっています。
参道手前左手にある瓦葺き屋根の「鐘楼」は、釈宗演老師の居士である神津猛氏が、持ち山の材木を寄進して、大正5年(1916)に建立したものです。梵鐘は、観応元年(1350)の補陀落寺のもの(神奈川県指定文化財)。元弘2年(1332)に作られた、元の梵鐘は現在韮山の本立寺にあります。
ご本尊の「釈迦如来坐像」を祀る「本堂」。関東大震災後、佐藤禅忠師が紺紙金泥で観音菩薩を揮毫して寄進を募り、 昭和10年(1935)に建立したものです。
本堂中央に鎮座する木造の「釈迦如来坐像」。頭部内面の墨書銘によれば、永正12年(1515)火事のとき取出したこと、永正15年6月仏師弘円が面部を彩色し、左の玉眼を入れたこと、寛文11年に(1671)仏師加賀が修補したとあります。
東慶寺伝来の寺宝を展示する宝物館の「松岡宝蔵(まつおかほうぞう)」。
中にある重要文化財の木造 「聖観音立像」。もとは、鎌倉尼五山一位太平寺の本尊でした。
本堂の門前の先にある青銅製の「金仏」。
約20分の参拝・境内散策を終えたのが、鎌倉街道に下りて来たのが15時5分頃です。これで、朝から五寺一社を巡りました。
★ 続きは、『「Go To トラベル」で行く鎌倉 2日間』 (その7・浄妙寺)で ★
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます