私塾 成趣館

広島県東広島市の古流沖縄空手道場。稽古日は火・金。幼年部5時~少年部6時半~一般部8時~10時。(木)7時半〜中高生の部

無想会の型(形)について

2018-05-29 16:53:25 | 空手
みなさん、おはこんばんにちは(・ω・)ノ
なかなか、ブログ更新出来ていませんでした。まあ、講習会に関しては他の方が丁寧に報告されているので、そちらを参照にされて下さい。
講習会から帰ってきて、3日くらい体が痛く、動けない状況でした。
特に脚がバッキバッキになっていて、いつもなら立位体前屈をしても手の平べったりなのですが、しかしこの3日間、どう頑張っても指先が付くか付かないかくらいカチカチでした。
余りに酷いので整体に行ったり、火曜日の一般部のみ休みにしたりして、木曜日くらいにやっと回復しました。
それでも、トレーニングは日曜までお休みにして疲労を抜く事を優先させました。
トレーニングは鍛える事以上に回復させる事が重要と言います。こと日本人は休息を取る事が下手なので、今後、年齢の事も考えながら上手く休息を取っていくことが重要ですね。

さて、巷では日大アメフト部悪質反則問題で話題はもちきりです。あの件は、世間的には悪人を特定しやすいので、テレビの話題としては持ってこいですね。
特に反則を犯した宮川選手が、記者会見であまりに好青年過ぎて、あの後、誰が出ても悪人になってしまうという分かりやすさ。下手な脚本家でも書かんよな〜。
まあ、誰が悪くて、どう決着するかは、司法と当事者、関係者で決めればいい話で、ここでは善悪については触れません。
しかし、この件は、日本全体の問題として考えた時、スポーツの発展性を阻害してしまっている、まさに新垣師範の言う「アジア的停滞」の原因の一つではなかろうかと思うのです。
日大アメフト部の状況を簡単に書くと、全体の秩序(または特定の既成利益)にこだわるが故、支配被支配の関係が生まれ、個人を消され、優秀な人材が排除され、排他的な密閉空間となり、全体が停滞し結局全体をも殺してしまうという良い例ではないでしょうか。
この件の話から当道場のことに繋げようと思ったのですが、うまく繋がりそうに無いので、唐突ですがうちの道場の話に変えます。
当道場は、型をメインに教え基本的に試合に出ていません。年に一回、硬式空手の試合に参加させるだけです。この試合は組手試合で、条件を満たした者のみ、しかも希望者だけなので出場する生徒はごく少数です。型の試合には出ません。
何故型メインの道場で型の試合に出ないのか。それは、メジャーな空手の型とはまるで違うからです。
私も様々な空手を経験しましたので、空手界の現状はそれなりには知っています。マイナーな空手流派は、試合に出場し、勝つために自流の型を捨てて、メジャー流派の型に変えたところも幾つか知っています。空手のオリンピック参加でその流れは益々強くなっていくでしょう。
しかし、当道場は、今の稽古内容を変える事はないでしょう。
なぜなら、これ以外に正しい稽古はあり得ないと胸を張って言えるからです。そして、型をする事によって強くなれるという確信があるから、試合の必要性を全く感じないのです。
これは他の団体を貶めたり批判するものでなく、空手の型に対する客観的に見た現状を言い表しただけであるという認識で読んで頂きたいのですが、
現在の空手の型の位置づけは、試合の為の型でしかないというのが、残念ながら現状であると言わざるを得ません。
ですから、マイナー流派は自流の型を捨ててメジャー流派の型に迎合するという現象が起きるのです。
もし、自流の型に確固たる存在意義を持っているならば、捨てる必要性は全くありません。
また、自流の型に存在意義を見いだせないから、試合に出場する以外に型をする理由がなくなってしまうのです。
もちろん試合自体を否定する訳ではありません。試合によって得れるものはありますし、排他的、閉鎖的になるべきではありません。ですから、組手の試合は出れるよう道はあけてあります。
当道場が何故、試合にも出場しない型の習得に時間をかけられるかというと、型の習得それ自体が目的であるといえるからです。(まあ、でも厳密に言うと「強く」なる事が目的で、型の習得は手段ですけどね、しかし、その前段階すら言えないのが空手界の現状なんです)
だから、型を習得するだけで手一杯なのに、試合なんか出てられんわ!ってなのが本音なのです。
そしてここでまた何故、空手の型の目的が試合に出ることになってしまうのでしょうか?
それは、みんな(空手界全体で)思っていることがあるからです。「型って意味あるの?型で本当に強くなれるの?型の中で出てくるこの技って使えるわけないよ!!こんなの使ってるやつ見た事ないわ!!でも先生がやれっていうし、使えないのはお前が型のやり込みが足らないっていわれるし、昇段審査は型が出来ないと合格させてくれないし、しょうがないなあやろうか。」って少なくとも私は思ってました。みんな思ってると思うんですけど、出さないんです。大人だから。秩序がとれなくなるからか?(ああっこれもアジア的停滞か!?)
だから、私は以前やっていた流派では黒帯を取ってから型を全くやっていませんでした。(当時の先生に無理矢理、型の試合に出場させられて型を途中忘れるという恥を掻いた事も今では良い思い出です。)
では何故今、型中心に道場を運営できるか?
前述のように型に必要性があるからです。全ての技に合理性があり全ての動きに習得する意味を感じられるからです。
逆に「この型の技使ってる人見た事ないよ!」という型の試合に出る意義を見いだせないのです。
もし、仮に新垣師範レベルの審判がそろっている試合があるならば、私は喜んでその試合に出場するでしょう。

ところで無想会大阪講習会の話に移ります。
今回の講習会で一人型の動きが劇的に変わった人がいました。その人は完全に以前の動きから、落ちる動きに変わり、師範に「完全に浮いている」と言わしめるまでになっていました。
そしてそのH氏もう出てくる言葉が全く変わっているのです。
「上がるという事は落ちる事、出すという事は引く事、動くという事は動かない事、そういうことだったんですね!!歩く事を難しく考えていたけどみんな当たり前にやっていた事じゃないか!俺は今まで全然違う事をしていたのか!!」
まさに悟りを開いた修行僧のようでした。
そう、無想会の空手はまさに「禅」なのです!!
その説明は解剖学に基づき物理的であり理論的、合理的ではあるのですが、理解するまでは「禅問答」なのです。
しかし、本物であるから揺るぎないのです。
ですから、当道場は、試合に出ること無く、型のみの稽古でも揺らぐ事がないのです。

まあ、それ以上に私の根本に「しょせん空手」という言葉を置いているというのもあります。
これには眉をひそめる人もいるかもしれませんが、これは私が好きな一休宗純の道歌による影響です。
まあ「禅」繋がりで一つ。
「有漏路より 無漏路へかへる 一休み 雨ふらばふれ 風ふかばふけ」

此の世って言うのはあの世へ行く休憩所みたいなもんですよって歌です。
(私の下地にこんな道歌があるからいい加減な人生送っていても平気なんですよ・・・・)

また、この悟りによって、宗純は、師匠の華叟(かそう)禅師に「一休」という名を与えられたという。
Hさんも今回の悟りによって新垣師範から新しい名を貰えるとか貰えないとか・・・。


おわり(=゚ω゚)ノ















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2 コメント

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お写真をお借りしました (新垣清)
2018-06-11 00:24:49
貴ブログ掲載のお写真を、わたくしのブログでお借りしました。事後承諾のようなカタチになって申し訳ありませんが、宜しくお願いします。
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Re:お写真をお借りしました (taka0407_s50)
2018-06-11 11:44:40
了解です。
どうぞご自由にお使いください。
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