私塾 成趣館

広島県東広島市の古流沖縄空手道場。稽古日は火・金。幼年部5時~少年部6時半~一般部8時~10時。(木)7時半〜中高生の部

錬和舘呉中央支部の皆さん来訪

2021-09-19 00:53:00 | 空手
9/17(金)に錬和舘呉中央支部の皆さんが出稽古に来られました。

現在、広島県が緊急事態宣言中ということで、公共の施設が使えず、練習が出来ないそうです。
そこで、私が出稽古にお誘いしたところ、支部長のMジ先生と4人の生徒さんです(おおっ、予想以上にたくさん!!)。
私も錬和舘の生徒さんに指導させていただきました。
皆さん若いながら、かなり有望な選手ばかりです。
一人中学生がいましたが、とても中学生とは思えない強烈な回し蹴りをする子もいます!

これは悪い例をやっているところですね(汗)
主に技のベクトルの方向と体の使い方による力の作り方について説明しました。ようは簡単な物理法則の説明です。

これは、Mジ先生と脛鍛え(脛のぶつけ合い)です。昔は、脛をアザだらけにしながら、よくやったものです。中高生は少し引いてました。

その後皆で組手。私もお相手させて頂きました。

最後はMジ先生と。
このMジ先生、独自の研究で膝の抜きと重力落下を実際に使える技にまで落とし込み、アラフィフでありながらいまだに防具空手の各大会に一般部(壮年部ではない!)で出場し、毎回優勝、準優勝、上位入賞と結果を出している強者です。
そのお陰で私はMジ先生と組手をする度、いろいろな学びになっていますし、自分なりにテーマをもって稽古することができます。
今回もいろいろ試すことが出来ましたし、ある程度手応えもありました。また、まだまだな部分もあり、次の課題もみえてきました。
同じ時期に現役時代を過ごし(Mジ先生は未だに現役だが)、今では同じ方向性の空手スタイルを目指す同志がいるというのは、とてもありがたい存在です。
ともあれMジ先生の突きは相変わらず痛いです。
多くの人が出稽古に来てくれたおかげで充実した時間を過ごすことが出来ました。
惜しむらくは、台風の接近もあってうちの生徒はこの時間は誰も来なかったということですね。折角錬和舘さんからは大学生の女子まで参加してくれたのですから、是非うちの女子とも手合わせして欲しかったのですが、まあ、それも仕方ないですね。また、機会があるでしょう。
ともあれ、錬和舘呉中央支部の皆さん、はるばる呉から雨の中来て頂き、ありがとうございました。
次回は、うちから呉まで出稽古に是非行こうと思います。

新型コロナ自粛について思うこと

2021-09-03 14:17:19 | 日記

新型コロナが日本で見つかってから1年と7ヶ月経ちました。

広島でも緊急事態宣言が出されました。しかも、今回は我が道場でも、何となく保護者達の受け止め方が、今までと雰囲気が違ってきているので、ここに私の考をまとめてみました。

私は去年の4月から一貫して若者子供の自粛は絶対にやってはならないと主張してきました。

しかし、まあ、こんな一庶民の個人的考えは世間に届くことも無く、世の喧噪に空しく消えゆくだけで、世間では相変わらずの、バカ騒ぎです。最初は老人が危ないと言いながら、次は50代、40代クライシスだと、その次は若者の重症化を問題にし、そしてついには未成年、特に学校での感染拡大を問題視し、どんどん問題の年齢を下げていき巷間の危機感を広げています。次の冬には乳幼児の感染ガーと騒ぎ出すのではないのでしょうか?(しかし、実際にはデルタ株は、ワクチン接種関係なく、全世代の致死率は下がっています。10代以下は相変わらず0%ですし)


あくまでも主観ですが、今回の新型コロナ騒動には医学的観点を除けば大きく二つの問題点があると考えます。

先ず一つは、コロナ自粛による若者、少年層の10年20年後の長期に及ぶ悪影響を全く考えられていないということ。

人間は人と人との繋がりでものを学び成長してゆきます。特に年齢が低いほど人との関わりや触れ合いは重要となります。そのことは、幼児は沢山抱きしめてあげましょう、と言われることを引き合いに出すまでもないでしょう。

これは親子関係だけで無く、他人との関わり合いにおいても同じです。同世代の人間とのじゃれ合い、仲良くしたり喧嘩したり協力したりして互いに影響し合って成長していきます。また、年齢の違う他人や祖父母、親戚でも同様です。自分の周りでどのような人間関係が形成されているか理解できなくとも感じることは成長後の人生観に大きな影響を与えます。特に年齢が低ければ低いほどその関係性は自然のものに近く、本能を刺激する大切な時期であり、人間の性格の基礎とも言うべきものを形成していきます。

それを現在のコロナ自粛は全て否定します。曰く、他人と触れ合ってはいけない、曰く、大勢の人間と集まってはいけない、曰く、大声を出してはいけない、曰く多人数と食事をしてはいけない、したとしても喋ってはいけない、曰く、常にマスクを付けなくてはいけない、曰く外出してはいけないetc。と幼少期に絶対的に必要な物を禁じられています。

こんな感染対策を真顔で言う医者や専門家は新型コロナ感染のことしか考えず、他の付随する影響は全く考えてないのでしょうか?今感染しなければ、後には明るい未来がやってくると考えているのでしょうか?ワクチンまで自粛してと言いながら、今なおワクチンを打っても気を抜くなと喧伝する様子からは、とてもではないが先の未来のことなど何も考えてないようにしか見えません。

少し話はズレますが、私は、大学入学当初、気の抜けた活力無く、人との関係性の築き方も分からない、気力の無い、おおよそ生命力のかけらも無いような状態でした。その原因は様々ありますが、ここでは省きます。

しかし、入学してすぐ少林寺拳法部に入り、また同時に高校時代にやっていた流派の空手道場にも通いだしました。そこでは同期や先輩後輩の中でもまれながら、ぶつかり合いや団結を繰り返し、厳しいことも有りながらバカなことをして羽目も外したり、また空手道場では世代の違う人達の中で、それまでの自分の生活圏では出会えないような人達と出合い様々な経験をさせてもらい4年間を過ごすことが出来ました。

卒業する頃には空手の先生に「いそ君(筆者)は来たときには死んだ魚の目ぇしてたけど、今は目が生き生きしとるなあ。」と言われるぐらい活力を取り戻していたようです。

閑話休題。コロナ禍になって「不要不急」という言葉がよく聞かれるようになりました。

しかし、人生に於いて「不要不急」ということが存在するのでしょうか?

人間の経験は断続的なものでは無く、必ず連続性の中で培われるものです。どんな人にも人生を変えた出来事や経験、自分の考えに影響を与えた人物との出会いや言葉などあると思います。その影響を与えた出来事は一瞬かもしれません。しかし、そこに辿り着く課程は必ず連続した出来事の中で起こっているはずです。その連続の中には他人から見てどうでもいいようなことも含まれているかもしれません。ですが、そこに辿り着くためには、そのどうでもいい経験が必要なのです。

今はよく、コロナの感染を広げているのは自粛をしない若者だ、と若者を悪者に仕立て上げられています。

もし、私が今の時代に大学生だったらとよく考えます。部活、サークルもない、飲み会もない、新入生歓迎のキャンプもない、なんかかったるいなと思っていた集会もない、友達同志で騒ぎ回ることも憚られる、意見の違いで喧嘩することもない、旅行も出来ない、そもそも友達や先輩後輩が出来るのかすら分からない、リモートなどで授業などされたら何のために大学行っているのかすら分からなくなる、もともと生きる力が弱かった私はますます活力が弱まり引きこもり状態になり、廃人へ・・・。

どう考えてもこのコロナ自粛で殺されるイメージしか湧きません。


私にとって大学時代の経験や出会いは、私に活力を与え、生命力を吹き込んでくれたのです。もし、この時代を奪われてしまえば、私は未だに生気の薄い全く活力の無い人間になっていたのではないかとことによると自殺していたのではないかとそら寒くなってきます。

世の中には色々な意見があって、「勉強するんだからリモートで充分勉強できるじゃないか」と言う人もいます。

あまりに近視眼的な、そしてなんという視野狭窄。これはネットが生み出した大いなる勘違い、人間の傲慢さ。ネット環境が整ったゆえの、ロックダウンできるという大きな勘違いを生み出した最大の罪であると言えるでしょう。

人が人と直接交わらない人間関係がどれほど脆弱か、特に年齢が低ければ低いほどその影響は計り知れない。

これは、「僕は大丈夫、私は平気」と言う問題ではないのです。社会が脆弱になれば、その「僕や私」にも必ず巡り巡って還ってくるのです。そしてそれは子の代、孫の代と永遠に繋がっていく、歴史も人生と同じく連続性の中でしか存在し得ないのですから。

そして、もう一つの問題点は、ウイルスを人に移すことを異様に敵視してしまったこと。

もしかしたらこれが現在のコロナ自粛の一番の問題点かもしれません。

もともと感染症、特に風邪は人から人に移るものなのです。ウイルスや菌は目に見えることも無く、人に移そうとして移すものでは無いはずです。私も道場で子供を教える立場ですから過去、水疱瘡やインフルエンザを移されたこともありました。だからといって、それを以て誰が移したとか、誰かを悪人にするとかありません、当たり前ですね。

しかし、それを悪人、犯罪者扱いしているのが現在のコロナ騒動なのです。そしてそれに拍車をかけているのが無症状感染者という訳の分からない名称を広めてしまったことなのです。

お年寄りに移さないようにしましょう、まわりのみんなに迷惑をかけないようにしましょう、あなたの大切な人を守りましょうという美辞麗句を列べて、新型コロナに感染した人はおろか、コロナ自粛に反対するものをも悪人、犯罪者に仕立て上げてしまったのです。

もともと病気は人知れず誰かが誰かに移していたのです。インフルエンザウイルスや肺炎球菌などでも無症状保有者が他人に感染させていたと言われます。特に肺炎球菌は子供から高齢者に移し、死に至らしめていたそうです。

だからといって子供に向かって「お前の肺炎球菌でおじいちゃんが死んだんだ!」などとは言ってはいませんでした。もしそんな人がいたら、その人はひとでなしです。

しかし、その人でなしの行為は新型コロナの前では簡単に行われてしまっているのです。(いうなれば肺炎球菌で亡くなったおじいちゃんの孫を捕まえて肺炎球菌を保菌していないか調べ上げているという状態だといえます。そんなことしたら世の中混乱するのは当たり前です!)

そして人に移すかもしれないという事を根拠に子供達や若者を脅し、自粛をせまっているのです。

そして、感染自体を罪であるかのようにしてしまったのです。

「コロナに感染したら子供は軽く済むかもしれないが、お父さんお母さんに移したら大変なことになるよー」という悪魔のささやきを囁いて若者や子供達を強制的に自粛に追い込んでしまうのです。

これはワクチンでも同じことが行われています。本来ワクチン接種の必要の無い子供たちに打たそうとする常套句になっています。これはすべて脅しです、自粛恐喝、ワクチン恐喝です。(そうでもしないと子供や若者は自粛やワクチン接種をしません。医者や専門家は分かっているのです若者や子供は発症しても殆どはインフルエンザより軽いという事を、だからそう脅すのです)

世の中は全てお互い様なのです。移すことがあれば移されることもある。それで誰も責めることもなく、全て収まっていたはずです。そして、それが自然なのです。それを忘れて、亡くなったり重症化したりしたことを誰かのせいにしてしまっているのが今の世の中です。

私は、新型コロナが世に出てきた昨年の2月3月頃は未知のウイルスとして非常に恐れていました。しかし、徐々に実態が見えてくるにつれ、それほど警戒する必要は無いな、しっかりとポイントを押さえさえすれば過剰に恐れる必要は無いと考えるようになりました。

また、上記のように自粛による世の中への悪影響と自粛による新型コロナ抑制の可能性とを天秤に掛けたとき、明らかに自粛による悪影響の方が甚大であると思うようになってきました。

そのような考に至ってくると世間とのズレを感じ、自分の考えの立ち位置が難しくなり、どう行動するべきかと悩むようになってきます。今の所は、まあ、ポイントポイントだけ世間に合わせる形で生活しています。

しかし、今後どうなるか分かりません。このシーズンで終わるか?次のピークを超えたら終わるか?といつも期待はするのですが、更に世間のコロナ恐怖症は固定化に向かいますます長引く様相すら感じられます。

とにかく私は、コロナ感染はある程度許容し、通常生活に一日でも早く戻さなければ、未来ある若者や子供、これから生まれてくる子供達に至るまで甚大な悪影響が及んでしまうぞと、危機感を常に持っています。

そして、いち早いコロナ騒動の終焉を願っています(あくまでもコロナ“騒動”の終焉です。新型コロナはこれからも存在し続けます。永遠に。しかし、だからこそこれを許容しない限り、“騒動”は収まらないでしょう。)

あなたは10年20年先の未来を考えたとき、そして子供達のことを考えたとき、人間的生活を望みますか?それとも永遠にコロナを恐れ、人間的生活を放棄しますか?と私は世に問うてみたいのです。