みなさん、おはこんばんにちは。最近原因不明の高熱が出るも、一晩寝たら治ったり、作業中に手が滑ってペンチで自分の顔を殴ったり、散々な目におうとります(・ω・)ノ
さて、最近の一般部の稽古で、腕を重力落下させて突くように指導したところ、Iケダさんの突きのスピードが上がったので、重力落下について一考察。
技は重力落下を利用します。
これを体感させるために初期の頃は膝の抜き(いわゆる膝カックン)を使って自分の身体を落下させていました。
そして、技を出すときに使う身体の動きは、この重力落下を助け、勢いつかせるものでなければならず、邪魔するような動きであれば、それは排除されなければなりません。
すると徐々に膝を抜いて身体を落下させるということがなくなりました。
何故か?
遅くて居着いてしまう、つまり重力落下の邪魔をしてしまうからです。
ナイハンチ立ちが正しく出来ていれば、身体の奥の筋肉を動かせば、十分身体は自由落下します。膝の抜きでは動きは大きいし、相手に入っていくまで時間がかかり過ぎます。
つまり、膝の抜きで動くというのは、重力落下の邪魔でしかないのです。
(もちろん動くときに全く膝が抜けてないわけでなく、敢えて抜く必要がなくなり、重力落下の過程で邪魔になるから抜いているだけの状態になります。)
では、何故初期の頃は膝を抜いて重力落下を教えるのでしょうか。
それは、それ以外に重力落下を体感させる方法がないからに他ありません。
初期の頃は構えても、身体がドッシリ脚の上に乗っかっています。この状況で身体を重力落下させるには、それを邪魔している脚を取り除くしかありません。この取り除くということが「膝を抜く」という行為に当たります。
しかし、正しいナイハンチ立ちが出来ると身体を宙に浮かすことが出来ます(もちろん実際に浮いているわけではなく、感覚です。しかし、ドッシリと脚の上に身体が乗っかることは、まずなくなります)。するともはや脚は身体を支えるものではなくなるので、脚を取り除く(膝を抜く)必要が無くなるのは当然と言えるでしょう。
つまり、重力落下を一番邪魔していた脚が無くなる訳ですから、ほんの少しだけ(ホントに身体の奥の奥を)動かすだけで落下は始まり、後は全ての動き、筋繊維の一本に至るまで重力落下の邪魔をしない、且つ助けになる方向に動かしてやりさえすれば、技は強力になるはずです。
更にここまで出来れば、今度は「打ってやろう!」という意識すら邪魔になります。
ただ落ちればいいだけですから、「打とう」という気持ちは力みを生んで自由落下の邪魔をします。これが、武道、武術で言われる所謂「脱力」といえるかもしれません。
しかし、その立ち姿は決して世間一般にイメージされる脱力した姿とは全く違うでしょう。
この「脱力」はあくまでも重力落下を邪魔しないための脱力でしかありません。
ここを経て初めて人は「無心」というものに行き着くのかもしれません。
もちのロン、私にはまだまだの境地です。
これは、あくまでも理屈です。分かったからといってすぐ出来る訳ではありません。
現に私は、ナイハンチの後ろ交差でつい膝が引き込まれてしまっていました。
分かると出来るは違います。
また初心に戻って椅子を使って脚上げをやり直しました。不思議なもので、初期の頃と違う部位が攣りそうになります。多分身体の使い方がまるで変わっているのでしょう。
初心に帰ると言うものは、かえって初心以上の状態になれるようです。
あひ見ての 後のこころに くらぶれば
昔はものを 思はざりけり
まあ、これは恋の歌ですが、恋ではなく、重力落下に出会ったと解釈して下さい。
最近、息子が小倉百人一首にはまって、カルタをしているので親として負けないように、私も覚え直しています。
嬉しげに載せてみました。
終わり(=゚ω゚)ノ
さて、最近の一般部の稽古で、腕を重力落下させて突くように指導したところ、Iケダさんの突きのスピードが上がったので、重力落下について一考察。
技は重力落下を利用します。
これを体感させるために初期の頃は膝の抜き(いわゆる膝カックン)を使って自分の身体を落下させていました。
そして、技を出すときに使う身体の動きは、この重力落下を助け、勢いつかせるものでなければならず、邪魔するような動きであれば、それは排除されなければなりません。
すると徐々に膝を抜いて身体を落下させるということがなくなりました。
何故か?
遅くて居着いてしまう、つまり重力落下の邪魔をしてしまうからです。
ナイハンチ立ちが正しく出来ていれば、身体の奥の筋肉を動かせば、十分身体は自由落下します。膝の抜きでは動きは大きいし、相手に入っていくまで時間がかかり過ぎます。
つまり、膝の抜きで動くというのは、重力落下の邪魔でしかないのです。
(もちろん動くときに全く膝が抜けてないわけでなく、敢えて抜く必要がなくなり、重力落下の過程で邪魔になるから抜いているだけの状態になります。)
では、何故初期の頃は膝を抜いて重力落下を教えるのでしょうか。
それは、それ以外に重力落下を体感させる方法がないからに他ありません。
初期の頃は構えても、身体がドッシリ脚の上に乗っかっています。この状況で身体を重力落下させるには、それを邪魔している脚を取り除くしかありません。この取り除くということが「膝を抜く」という行為に当たります。
しかし、正しいナイハンチ立ちが出来ると身体を宙に浮かすことが出来ます(もちろん実際に浮いているわけではなく、感覚です。しかし、ドッシリと脚の上に身体が乗っかることは、まずなくなります)。するともはや脚は身体を支えるものではなくなるので、脚を取り除く(膝を抜く)必要が無くなるのは当然と言えるでしょう。
つまり、重力落下を一番邪魔していた脚が無くなる訳ですから、ほんの少しだけ(ホントに身体の奥の奥を)動かすだけで落下は始まり、後は全ての動き、筋繊維の一本に至るまで重力落下の邪魔をしない、且つ助けになる方向に動かしてやりさえすれば、技は強力になるはずです。
更にここまで出来れば、今度は「打ってやろう!」という意識すら邪魔になります。
ただ落ちればいいだけですから、「打とう」という気持ちは力みを生んで自由落下の邪魔をします。これが、武道、武術で言われる所謂「脱力」といえるかもしれません。
しかし、その立ち姿は決して世間一般にイメージされる脱力した姿とは全く違うでしょう。
この「脱力」はあくまでも重力落下を邪魔しないための脱力でしかありません。
ここを経て初めて人は「無心」というものに行き着くのかもしれません。
もちのロン、私にはまだまだの境地です。
これは、あくまでも理屈です。分かったからといってすぐ出来る訳ではありません。
現に私は、ナイハンチの後ろ交差でつい膝が引き込まれてしまっていました。
分かると出来るは違います。
また初心に戻って椅子を使って脚上げをやり直しました。不思議なもので、初期の頃と違う部位が攣りそうになります。多分身体の使い方がまるで変わっているのでしょう。
初心に帰ると言うものは、かえって初心以上の状態になれるようです。
あひ見ての 後のこころに くらぶれば
昔はものを 思はざりけり
まあ、これは恋の歌ですが、恋ではなく、重力落下に出会ったと解釈して下さい。
最近、息子が小倉百人一首にはまって、カルタをしているので親として負けないように、私も覚え直しています。
嬉しげに載せてみました。
終わり(=゚ω゚)ノ