日本年金機構に行ってわかったこと。
我が家のクソ寄生虫親父、自分たち夫婦は厚生年金をはじめから夫婦二人で会社の経費でかけていたくせに、私たち夫婦には名義変更されるまで放置としあった。
特に妻の厚生年金は10年も放置してあった。
祖父が運送会社を立ち上げ、祖母が旅館経営をして木造二階建ての旅館から当時私が小学生一年生の時に鉄筋コンクリート5階建ての旅館に建て替え順風満帆だったものを不渡り手形をだして負債廃業に追い込んだ原因を作ったのも親父でした。
当時8000万円の負債は債務者会議にかけられ親父は祖父に逃がしてもらい東京に逃げていたのに私たちには祖父が逃げて当時22歳の俺一人債務者会議で対応したと私たち夫婦には嘘をつく。
現に親父の兄弟、祖父母、祖父母が連日の厳しい取り立てに身体を壊し病院で点滴を打ちながら親父の妹たちに支えられ会議に向かったと親戚から聞いています。
親戚・兄弟・姉妹・当時を知る人たちと親父一人の意見が違いますが、親父以外の人たちの意見は一致しているのはなぜか?
(22歳のときに東京でイギリス製品の特注の背広を作ったと自慢していた話とこの時代が重なるのはどうしてか)
親父の昔話で当時は文房具店で手形が購入出来て信頼性のないものだったと、よく昔聞かされていた話が、ここで結びつく。
祖父の自動車販売会社を経営していたときも九州に車を売りに行くという名目で宮崎のフェニックスでゴルフ三昧の遊びをして、ここでも赤字経営の結末をだしてしまっている。
ここでゴルフのレッスンをプロから受けていたのでハンディ4という自慢話がある。
販売をそっちのけにしてプロのレッスンを受けることは当時、凄い授業料だったことは想像できる。
そんなことを後から知った兄弟・姉妹・親戚がよく思わないのは当然だろう。
結末、それが証拠に私たちが現在の会社を清算したときの親父達の不正の帳面清算処理も、どのように流れで解決したのかを説明しても親父は無視・わからないふりをして話を逸らす。
親父達の帳面・会社経営がいかにめちゃくちゃだったか、私たちの壁があったからこその、当時儲かっていたから解決していったものなのです。
話を聞こうともしない、最後に司法書士さん・弁護士さん・税理士さん・取引先の会社役員さんに挨拶も出来ない、しない奴でした。