今日、2回目の更新です。
(奈良新聞より)
飛鳥時代の権力者、蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子の邸宅が営まれたとされる明日香村川原の甘樫丘東麓遺跡で、
これまでの調査地とは別の谷でも7世紀中ごろに大規模に造成していたことが分かり、
奈良文化財研究所が5日、発表した。
当時丘が広範囲にわたって開発され、土地利用されていた可能性があるという。
平成5~23年度までの調査で大規模造成が確認されている谷から、
北方約100メートルにある谷で、約800平方メートルを発掘調査。
従前の調査地より小さな谷ながら、斜面を削って低地を最深5・5メートル以上埋め立て、
東西20メートル以上、南北30メートル以上の平坦面をつくっていた。
平坦面には、倉庫など高床の建物の可能性がある東西3間、南北3間の総柱建物跡を確認。
そのほか東西3間、南北2間の掘っ立て柱建物跡も検出した。
出土した土器から、造成は7世紀中ごろとみられ、ごく短期間で遺構は廃絶したと考えられるという。
玉田芳英都城発掘調査部副部長は「東麓は広範囲に造成が行われていたようだ。
これまで点だった遺跡が面的に広がる可能性がある」と話す。
「日本書紀」には甘樫丘に蝦夷・入鹿の邸宅が営まれたという記述があり、同遺跡との関連が注目されている。
現地見学会は7日午前11時から午後3時。小雨決行。駐車場はない。
問い合わせは同研究所都城発掘調査部(飛鳥・藤原地区)、電話0744(24)1122。
(奈良新聞より)
飛鳥時代の権力者、蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子の邸宅が営まれたとされる明日香村川原の甘樫丘東麓遺跡で、
これまでの調査地とは別の谷でも7世紀中ごろに大規模に造成していたことが分かり、
奈良文化財研究所が5日、発表した。
当時丘が広範囲にわたって開発され、土地利用されていた可能性があるという。
平成5~23年度までの調査で大規模造成が確認されている谷から、
北方約100メートルにある谷で、約800平方メートルを発掘調査。
従前の調査地より小さな谷ながら、斜面を削って低地を最深5・5メートル以上埋め立て、
東西20メートル以上、南北30メートル以上の平坦面をつくっていた。
平坦面には、倉庫など高床の建物の可能性がある東西3間、南北3間の総柱建物跡を確認。
そのほか東西3間、南北2間の掘っ立て柱建物跡も検出した。
出土した土器から、造成は7世紀中ごろとみられ、ごく短期間で遺構は廃絶したと考えられるという。
玉田芳英都城発掘調査部副部長は「東麓は広範囲に造成が行われていたようだ。
これまで点だった遺跡が面的に広がる可能性がある」と話す。
「日本書紀」には甘樫丘に蝦夷・入鹿の邸宅が営まれたという記述があり、同遺跡との関連が注目されている。
現地見学会は7日午前11時から午後3時。小雨決行。駐車場はない。
問い合わせは同研究所都城発掘調査部(飛鳥・藤原地区)、電話0744(24)1122。