「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

陸続と日本会議支部結成の準備が

2007-10-30 09:53:51 | 日々の出会い・感動
吉田松陰先生の命日に当る10月27日に日本会議山口萩長門支部が結成され、28日には松陰神社に参拝し、支部の顧問にご就任戴いた上田宮司にお会いして御礼と報告のお話をする。松陰神社には東京からの修学旅行生など訪問客であふれており、頼もしい感じがした。吉田松陰先生も喜ばれているだろう。

拝殿横の松門神社の横に「明治九年萩の変七烈士殉難之地」の石柱が建立されていた。前原一誠と共に奥平謙輔先生の名前もあった。戊辰戦争後、敵方である会津の少年をかくまい教育を施した奥平先生の威徳については、その時の少年の一人山川健次郎が後に文章を認めている。山川健次郎はアメリカに留学し日本人初の物理学博士となり、帰国後東京帝大や九州帝大の総長を歴任した偉大なる教育者である。

宇部に行き、学校法人有倫館学園長の中村氻郎氏とお会いする。海軍出身の中村氏は気合の入った方で、教育方針が施設の職員の言動にも徹底していた。中村氏は宇部日の丸会の会長で、紀元節や天長節更には昭和節・憂国忌と行事を行われている。日本会議の支部結成の件で訪問したが、県本部とも連絡して既に10月6日に有志で支部の旗揚げを行われており、毎月定例の会議も始められていた。今後支部結成総会を行う予定との事。

中村氏のお話には多々感銘を受けた。海軍で「士官らしく、士官ぶるな」との教えを受けたが、すべてにこれは当てはまる。「男らしく、男ぶるな」「女らしく、女ぶるな」にも言える事である、とのお話には成る程と関心させられた。又、平成14年11月4日に中村氏は人事不肖に陥り、意識がなくなりかけたが、その時次の三つの言葉を何度も繰り返していたと施設の職員から後で聞いたとこ事。

それは、「ご苦労じゃった。後を頼むぞ。国の為になる仕事をせい。」の三つで、中村氏の人生の志が集約された言葉だった。幸い、中村氏は三途の川から戻って来られ、今尚かくしゃくとされているが、「人の正に死せんとするや、その言や嘉し」という言葉があるが、私自身も中村氏の言葉の如く、自らの人生の志を表す端的な言葉を残したいと思った。

その後、山口市に向かい、自民党の研修会で来られていた岩国市議の方とお会いする。沖縄の報告をすると、岩国も基地をかかえて、市長が反米派であり、社民党などの支援を受けており、左翼が「第2の沖縄」にしようと画策している実態をお話された。だが、反米市長の政策には経済界も含めてこのままでは「第2の夕張」になってしまう、との危機感があり、リコール運動も起こっているそうである。最近起こった米兵による女性暴行事件についても、地元の人は「あんな時間にあそこをうろついていた女性にも問題がある。」と冷静に受け止めているそうである。米軍基地の周辺には米軍目当ての女性がうろついている事も実態としてあるそうだ。

岩国問題についても、反米マスコミの一方的情報のみが流されるので、岩国からも是非、正しい情報を発信して欲しいとお願いした。

昨日は、広島県に移動、夜7時から廿日市市在住の会員の集いを開催した。ここでも正しい情報を発信して行く事が話題となった。廿日市では先日市長選挙が行われ、数十年ぶりに保守系の市長が誕生したとの事。革新系の女性候補は、岩国の影響か「廿日市が第2の夕張になる」などと、根拠の無いプロパガンダを駆使して、市民の不安を煽ったそうである。私の沖縄の報告に対しても、沖縄に大学生を多数派遣して、正しい情報を伝える宅配を行ったらどうかなど、沖縄を憂える積極的な意見が次々と出された。今後、廿日市支部を結成していく事が決定し、11月末に準備の為の次回の会合が決まった。

山口から広島に行く間、時間があったので普通列車に乗って、山岡荘八『小説太平洋戦争』の5巻「南の島燃ゆ」の沖縄の所を読んでいた。大東亜戦争中の従軍記者として鹿屋特攻基地での取材など、現場での取材体験を基に、戦後史料や証言などを取材して記されたこの書物は、当時の日本人のありのままの真実が記されている。渡嘉敷や座間味の集団自決の事も出てくるが当時の日本人にとっては、敵に屈服などするものかとの意識が住民にもみなぎり、特に村の指導者の老壮の人々にも旺盛であった事や、敵に斬り込みをかけた少年達の事なども記されている。特攻隊・戦艦大和・沖縄地上戦を一貫する当時の日本人の精神が余すことなく記されている。私は、読み進めつつ胸が熱くなった。だが、当時の日本人の精神が現代の「平和ボケ」日本人には憶念する事さえ出来なくなったのである。

「日本人には伝統として生命の永遠性を透見してゆく「往生」の思想があり、これを体認した者には個々の死はかくべつ大きな恐怖ではないからだ。」との死生観が現代人には理解しがたくなっている。だから、大東亜戦争を戦い抜いた日本人が解らなくなっているのだ。


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