②中国地方総監
大塚惟精(おおつか いせい)M35卒
「中国五県を束ねる中国地方総監として本土決戦に備える中、広島原爆の犠牲に」
大塚惟精は、明治17年に熊本県合志市竹迫上町に生まれた。旧藩主細川家の花岡邸に勤めていた父・惟一の薫陶を受けて育った。済々黌から五高に進み、東京帝大法科を卒業。明治43年に内務省に入り、徳島、宮城、神奈川各県警察部長を歴任。二年間の欧米視察後に内務省外事課長となり、わが国外事警察の基礎を築く。その後、栃木、福岡、石川各県知事を経て、昭和4年には内務省警保局長となる。
その時に「全国警察官武道大会」を開始した。大塚は第一回大会委員長として「武とは戦うことでなく、文字が示すとおりに戈を止めることである。」と訓示している。自らも教士号を持つ剣士で、武道によって全国警察官の士気を鼓舞した。済々健児の面目躍如たるものがある。その人柄は、豪快・果断・誠実で友情に富み、謹厳な事は有名で、山岡流を身に付け、終生道場に親しみ、剣道を通じての修養に努めた。又、全日本学生剣道連盟産みの親でもあり、昭和5年にはその全日本学生剣道連盟の主催で全日本選抜中等学校剣道優勝大会が開始される事になる。尚、済々黌剣道部は第4回、6回、8回の大会で見事優勝に輝いている。大塚の喜びは一入であった事だろう。
昭和6年、勅選の貴族院議員に任じられ国政に参画した。敬神崇祖の念が篤く機会を見てはよく墓参に帰省した。菩提寺の佛教寺には盆と正月には必ず先祖の供養を依頼するお布施と懇切な手紙を送り、それら手紙は今も佛教寺で大切に保管されている。昭和7年には済々黌の講堂で「日本の進路」と題して講演をしている。
昭和17年陸軍司政長官となり第十六軍軍政顧問としてジャワに赴任する。その出発前墓参に帰郷した。その際、竹迫国民学校で講演し、児童達に「私は母校に三本の木(き)を植えて行く。それは、しょうじき・はたらき・ゆうき、の三つの「き」である。すくすく育ててほしい。」と述べた。この講演は語り継がれ今日竹迫校がを継承し発展した合志小学校の「校訓」(三つの木)「働き・勇気・根気」に受け継がれている。済々黌では、帰国後の昭和19年5月26日に講演されている。
20年4月21日には広島県知事に任命され、25日には橿原神宮に参拝祈願されている記録が橿原神宮に残っている。更には、沖縄戦の戦況悪化に伴い本土決戦に備えて都道府県の上位に位置する内務省管轄下の地方行政機関である地方総監部が置かれる事となり、6月10日に中国五県を束ねる中国地方総監に就任した。その任務に尽力中の8月6日、米軍が広島市に投下した原爆によって壮烈な最期を遂げた。時に60歳だった。
大塚惟精(おおつか いせい)M35卒
「中国五県を束ねる中国地方総監として本土決戦に備える中、広島原爆の犠牲に」
大塚惟精は、明治17年に熊本県合志市竹迫上町に生まれた。旧藩主細川家の花岡邸に勤めていた父・惟一の薫陶を受けて育った。済々黌から五高に進み、東京帝大法科を卒業。明治43年に内務省に入り、徳島、宮城、神奈川各県警察部長を歴任。二年間の欧米視察後に内務省外事課長となり、わが国外事警察の基礎を築く。その後、栃木、福岡、石川各県知事を経て、昭和4年には内務省警保局長となる。
その時に「全国警察官武道大会」を開始した。大塚は第一回大会委員長として「武とは戦うことでなく、文字が示すとおりに戈を止めることである。」と訓示している。自らも教士号を持つ剣士で、武道によって全国警察官の士気を鼓舞した。済々健児の面目躍如たるものがある。その人柄は、豪快・果断・誠実で友情に富み、謹厳な事は有名で、山岡流を身に付け、終生道場に親しみ、剣道を通じての修養に努めた。又、全日本学生剣道連盟産みの親でもあり、昭和5年にはその全日本学生剣道連盟の主催で全日本選抜中等学校剣道優勝大会が開始される事になる。尚、済々黌剣道部は第4回、6回、8回の大会で見事優勝に輝いている。大塚の喜びは一入であった事だろう。
昭和6年、勅選の貴族院議員に任じられ国政に参画した。敬神崇祖の念が篤く機会を見てはよく墓参に帰省した。菩提寺の佛教寺には盆と正月には必ず先祖の供養を依頼するお布施と懇切な手紙を送り、それら手紙は今も佛教寺で大切に保管されている。昭和7年には済々黌の講堂で「日本の進路」と題して講演をしている。
昭和17年陸軍司政長官となり第十六軍軍政顧問としてジャワに赴任する。その出発前墓参に帰郷した。その際、竹迫国民学校で講演し、児童達に「私は母校に三本の木(き)を植えて行く。それは、しょうじき・はたらき・ゆうき、の三つの「き」である。すくすく育ててほしい。」と述べた。この講演は語り継がれ今日竹迫校がを継承し発展した合志小学校の「校訓」(三つの木)「働き・勇気・根気」に受け継がれている。済々黌では、帰国後の昭和19年5月26日に講演されている。
20年4月21日には広島県知事に任命され、25日には橿原神宮に参拝祈願されている記録が橿原神宮に残っている。更には、沖縄戦の戦況悪化に伴い本土決戦に備えて都道府県の上位に位置する内務省管轄下の地方行政機関である地方総監部が置かれる事となり、6月10日に中国五県を束ねる中国地方総監に就任した。その任務に尽力中の8月6日、米軍が広島市に投下した原爆によって壮烈な最期を遂げた。時に60歳だった。
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