葉隠その五(『祖国と青年』25年1月号掲載)
真の智慧にかなひがたき時は、智慧ある人に談合するがよし。(略)大木の根多きが如し。一人の智慧は突つ立ちたる木の如し。(聞書第一 5)
今回は、「知恵」をテーマに紹介する。山本常朝は、聞書第二の中で、「武士たるものは、先ずは主人に身体と生命を捧げきり、更に内には『智仁勇』三つの徳を身に備えねばならない。三徳兼備などと言うと難しそうだが、実は簡単な事である。『智』は、何事も人に相談し、その事により無限の智慧が身に備わってくる。『仁』は、人の為になる様に常に考えて、自分の事よりも人の事を大切にすることである。『勇』は、歯を食いしばって、あらゆる難題にぶつかって乗り越えて行く事だ。」と述べている。常朝の三徳に関する解釈は、簡潔で気持が良い。特に、「智」について、独断を排し、他人のアドバイスを進んで求めよ、と述べているのは、如何にも日本人らしい。常朝は決して独断の人ではなかった。
常朝は「智慧」について『葉隠』の巻頭、聞書第一の五番目に述べている。ここで紹介している言葉はその中の一節である。「自分の智恵だけで事を運ぼうとするから上手く行かず悪い結果になってしまう。真の智恵に適い難い時は、智恵のある人に相談すれば良い。そうすれば、はためにも確かに見える。それは、あたかも大木がたくさんの根を張っている様なもので、一人だけの智恵に頼るのは地面に突き刺した木の様なものである。」と。
多くの根が巨木を支える。人間も大きくなりたければ、多くの人々から知恵を吸収し続けねばならない。その為には「聞く力」が問われる。人間学でも「聞き上手こそ話上手」「口は一つで、耳は二つある。話す事の二倍聞け。」と言う。李二曲や熊澤蕃山は三年軽々しく口を発しない「黙養」の行を自らに課した。真の智者は、自己主張を繰り返す評論家連より、日頃黙している者達の中に隠れている。
先づ幼稚の時より勇気をすすめ、仮初にもおどし、だます事などあるまじく候。 (聞書第一 85)
葉隠の「子育て論」が、聞書第一の中に記されている。少々長くなるが全訳して紹介する。
「武士の子供については、武士の子らしい育て方がある。先ずは幼少の頃から勇気をすすめて、かりそめにもおどしたり、だましたりしてはならない。幼少の時に臆病心が生じればそれは一生の傷になる。世の親たちは思慮もなく、雷鳴の時に怖じ気づかせたり、くらがりには行かせない様にしたり、泣き止まそうとして、恐ろしがる様な事を話聞かせたりするが、それは思慮が足りない事である。又、幼少の時に強く叱りすぎると内気になってしまう。又悪い癖が沁み込まぬ様にしなければならない。沁み込んだ後はいくら意見しても直らないものだ。挨拶の仕方や礼儀作法などを、だんだんと気を付けさせ、欲心など起さない様にし、その他育て方次第で、普通の生まれつきならば良く育つはずである。又、夫婦仲が悪い家の子供は不孝者になるというのは、もっともである。鳥や獣さえ、生れ落ちてから見慣れ聞き慣れした事によって大きくなって行く。又母親が愚かであるが故に、父と子の仲が悪くなる事がある。母親は何のわけもなく子を愛して、父親が意見をすれば子供の贔屓をして、子供の肩を持つので、父親と仲が悪くなるのである。女の浅はかな考えから、将来を頼んで子供の味方をするからである。」
現代では「日本男子(強く正しく明るい)」は絶滅危惧種になっている。現代の親達は過保護で、子供達に「臆病心」ばかりを増長させて来ている。常朝が言う様に、それは一生の傷となって、「弱く汚く暗い」臆病日本人を拡大再生産している。
更には、夫婦仲の指摘は重要である。子供の教育は夫婦の共同作業であり、それぞれの「父性」と「母性」とが補完し合って子供はまともに育つ。夫婦がそれぞれを認め合い尊敬しあう事がその基礎となる。その為には親も又日々生長せねばならない。
母親の溺愛が父子関係を悪化させている例は今日でも多く見られる。更に現代は、父親の溺愛によって母子関係が悪化する例もある。父親がその役割を放棄し、母親が父性を演じざるを得なくなっている。言志晩録の「父の道は当に厳中に慈を存すべき。母の道は当に慈中に厳を存すべし。」を再度心したい。
長門がためなり。我が死後に枕を高くして緩りと休み申さるべし。 (聞書第二 3)
葉隠の中には、深謀遠慮ともいうべき侍達の智恵あるエピソードが数多く紹介されている。その中から幾つかを紹介しよう。初代藩主勝茂公の時、多久美作守茂辰という立派な家老が居た。だが、多久殿は老後に、回りの家臣に対して無理難題ばかりを言う様になった。そこで、或る者が意見をしたら、多久殿は、「それは長門(嫡男・多久長門守茂矩)の為に行っているのだ。私が死んだ後に長門が枕を高くしてゆっくり寝る事が出来る様になる為だ。」と語られた。総じて家中の者を慈しんだ人物は、皆から慕われている。そこで隠居前にわざと無理難題を言い、人心が離れる様にする事で、嫡子に後を譲った時、家中の者が早く新当主に心をよせる様になれるのだ。だが、この事は秘密の事である、と。実は、多久美作がこの様な、「深謀遠慮」を実行したのは、次の事を体験していた為であった。
聞書第八・68に次の話がある。勝茂公が薨去された際、家老の多久美作は勝茂公の遺訓を紙に記して家中の者に配ろうとした。その前に龍造寺の小姓であり智恵者と言われた志田吉之助に見せた。ところが、志田はその紙に目を通すや、投げ捨てて、次の様に述べた。「あなたは人並みの家老かと思っていたら、全く何の役にも立たない家老ですね。家老とは、家中の者が主人に懐く様にするのものではないのですか。勝茂公が亡くなって、ただでさえ、家中の者達は先君を慕って嘆き悲しんでいるのに、この様な遺訓を配ったら、益々、先君を慕って江戸育ちの新君に心寄せる者は居なくなるのではないですか。あなたが忠節の家老なら、先君の遺訓を悉く新君の思し召しだと称して、自分の計らいは秘して皆に配れば、家中の者は先君にも増さる新しい殿様だと思って、代の始めから皆の心が懐く様になるでしょう。」と。これを聞いた多久美作は成る程と思ったのだった
。
御世がわりに対する深い慮りがこれらのエピソードには込められている。先君と新君、変わりゆく主君に対し、変わらない忠誠心を家中の者達に持続させて行く為の配慮であった。かくて、藩も家も守られて行く。名君と言われた者ほどその後を継ぐ者とのギャップが生じる。それを先人達は様々な知恵によって乗り越えて来たのである。
すべて、人の為になるは我が仕事と知られざる様に、主君へは隠し奉公が真なり。 (聞書第十一 140)
聞書第八・76に出てくる深謀遠慮のエピソードをもう一つ。鍋島主水殿と久納市右衛門とは、仲が悪く、藩主の勝茂公は久納の働きに加増したいと思っておられたが、主水殿の事を慮って控えておられた。ある時、勝茂公が久納の家にお成りになる事となった。それを聞いた主水殿は、勝茂公に久納の加増を進言した。勝茂公は大層喜ばれて、その旨を久納に告げられた。久納は喜んで、早速主水殿にお礼を述べに行ったが、主水殿は「そなたが精を出しているので申し述べただけの事、そなたと仲直りした訳ではない。」と素っ気なかった。その後、主水殿は、死去される直前に久納市右衛門を招かれて次の様に述べられた。
「そなたはお役に立つ人物ではあるが、自慢や奢りの心があるので、私はあえて仲悪くしてそれを抑えてきた。私が死んだ後はそなたを抑える人物はもはや居なくなるであろう。これからは、物事を為す時は随分と人に譲って、主君の御用に立ってくれるように。」と。これを聞いた久納市右衛門は感涙にむせんで帰った。
才能ある人材は、チヤホヤされると高慢になりがちである。そこであえて鍋島主水殿は、抑え役として、嫌われ者を演じて来られたのだった。その本心は亡くなる直前まで隠しておられた。中々並みの人間に出来る事ではない。前項に紹介した話も含めて、これらの話を現代の若い方々に紹介すると、皆一様に唸って「昔の人ってすごいですね。」と感嘆する。
鍋島主水の深謀は、死ぬ直前迄他者に明かさなかった様に、葉隠は「忠義は密かに行うものである」との考えを貫いている。それが、この項の冒頭に紹介している「隠し奉公」である。
「すべて、人の為に行った事でも自分が行った事だと知られない様に、主君には隠して奉公するのが本物である。」更に、「その報いがあった時にはその志に感謝し、その様に心がけて、仇に対しても恩で報い、常に陰徳を心がけて、陽報を望まない事である。」と述べている。「隠し奉公」「陰徳」は人には解らないが、天は承知している。相対の世界に生きるのではなく、絶対の境地に安住する生き方ともいえよう。
以上、「葉隠」について五回連載して来たが、今回で終了し、次回からは「士道」を完成させた山鹿素行に入って行く。
真の智慧にかなひがたき時は、智慧ある人に談合するがよし。(略)大木の根多きが如し。一人の智慧は突つ立ちたる木の如し。(聞書第一 5)
今回は、「知恵」をテーマに紹介する。山本常朝は、聞書第二の中で、「武士たるものは、先ずは主人に身体と生命を捧げきり、更に内には『智仁勇』三つの徳を身に備えねばならない。三徳兼備などと言うと難しそうだが、実は簡単な事である。『智』は、何事も人に相談し、その事により無限の智慧が身に備わってくる。『仁』は、人の為になる様に常に考えて、自分の事よりも人の事を大切にすることである。『勇』は、歯を食いしばって、あらゆる難題にぶつかって乗り越えて行く事だ。」と述べている。常朝の三徳に関する解釈は、簡潔で気持が良い。特に、「智」について、独断を排し、他人のアドバイスを進んで求めよ、と述べているのは、如何にも日本人らしい。常朝は決して独断の人ではなかった。
常朝は「智慧」について『葉隠』の巻頭、聞書第一の五番目に述べている。ここで紹介している言葉はその中の一節である。「自分の智恵だけで事を運ぼうとするから上手く行かず悪い結果になってしまう。真の智恵に適い難い時は、智恵のある人に相談すれば良い。そうすれば、はためにも確かに見える。それは、あたかも大木がたくさんの根を張っている様なもので、一人だけの智恵に頼るのは地面に突き刺した木の様なものである。」と。
多くの根が巨木を支える。人間も大きくなりたければ、多くの人々から知恵を吸収し続けねばならない。その為には「聞く力」が問われる。人間学でも「聞き上手こそ話上手」「口は一つで、耳は二つある。話す事の二倍聞け。」と言う。李二曲や熊澤蕃山は三年軽々しく口を発しない「黙養」の行を自らに課した。真の智者は、自己主張を繰り返す評論家連より、日頃黙している者達の中に隠れている。
先づ幼稚の時より勇気をすすめ、仮初にもおどし、だます事などあるまじく候。 (聞書第一 85)
葉隠の「子育て論」が、聞書第一の中に記されている。少々長くなるが全訳して紹介する。
「武士の子供については、武士の子らしい育て方がある。先ずは幼少の頃から勇気をすすめて、かりそめにもおどしたり、だましたりしてはならない。幼少の時に臆病心が生じればそれは一生の傷になる。世の親たちは思慮もなく、雷鳴の時に怖じ気づかせたり、くらがりには行かせない様にしたり、泣き止まそうとして、恐ろしがる様な事を話聞かせたりするが、それは思慮が足りない事である。又、幼少の時に強く叱りすぎると内気になってしまう。又悪い癖が沁み込まぬ様にしなければならない。沁み込んだ後はいくら意見しても直らないものだ。挨拶の仕方や礼儀作法などを、だんだんと気を付けさせ、欲心など起さない様にし、その他育て方次第で、普通の生まれつきならば良く育つはずである。又、夫婦仲が悪い家の子供は不孝者になるというのは、もっともである。鳥や獣さえ、生れ落ちてから見慣れ聞き慣れした事によって大きくなって行く。又母親が愚かであるが故に、父と子の仲が悪くなる事がある。母親は何のわけもなく子を愛して、父親が意見をすれば子供の贔屓をして、子供の肩を持つので、父親と仲が悪くなるのである。女の浅はかな考えから、将来を頼んで子供の味方をするからである。」
現代では「日本男子(強く正しく明るい)」は絶滅危惧種になっている。現代の親達は過保護で、子供達に「臆病心」ばかりを増長させて来ている。常朝が言う様に、それは一生の傷となって、「弱く汚く暗い」臆病日本人を拡大再生産している。
更には、夫婦仲の指摘は重要である。子供の教育は夫婦の共同作業であり、それぞれの「父性」と「母性」とが補完し合って子供はまともに育つ。夫婦がそれぞれを認め合い尊敬しあう事がその基礎となる。その為には親も又日々生長せねばならない。
母親の溺愛が父子関係を悪化させている例は今日でも多く見られる。更に現代は、父親の溺愛によって母子関係が悪化する例もある。父親がその役割を放棄し、母親が父性を演じざるを得なくなっている。言志晩録の「父の道は当に厳中に慈を存すべき。母の道は当に慈中に厳を存すべし。」を再度心したい。
長門がためなり。我が死後に枕を高くして緩りと休み申さるべし。 (聞書第二 3)
葉隠の中には、深謀遠慮ともいうべき侍達の智恵あるエピソードが数多く紹介されている。その中から幾つかを紹介しよう。初代藩主勝茂公の時、多久美作守茂辰という立派な家老が居た。だが、多久殿は老後に、回りの家臣に対して無理難題ばかりを言う様になった。そこで、或る者が意見をしたら、多久殿は、「それは長門(嫡男・多久長門守茂矩)の為に行っているのだ。私が死んだ後に長門が枕を高くしてゆっくり寝る事が出来る様になる為だ。」と語られた。総じて家中の者を慈しんだ人物は、皆から慕われている。そこで隠居前にわざと無理難題を言い、人心が離れる様にする事で、嫡子に後を譲った時、家中の者が早く新当主に心をよせる様になれるのだ。だが、この事は秘密の事である、と。実は、多久美作がこの様な、「深謀遠慮」を実行したのは、次の事を体験していた為であった。
聞書第八・68に次の話がある。勝茂公が薨去された際、家老の多久美作は勝茂公の遺訓を紙に記して家中の者に配ろうとした。その前に龍造寺の小姓であり智恵者と言われた志田吉之助に見せた。ところが、志田はその紙に目を通すや、投げ捨てて、次の様に述べた。「あなたは人並みの家老かと思っていたら、全く何の役にも立たない家老ですね。家老とは、家中の者が主人に懐く様にするのものではないのですか。勝茂公が亡くなって、ただでさえ、家中の者達は先君を慕って嘆き悲しんでいるのに、この様な遺訓を配ったら、益々、先君を慕って江戸育ちの新君に心寄せる者は居なくなるのではないですか。あなたが忠節の家老なら、先君の遺訓を悉く新君の思し召しだと称して、自分の計らいは秘して皆に配れば、家中の者は先君にも増さる新しい殿様だと思って、代の始めから皆の心が懐く様になるでしょう。」と。これを聞いた多久美作は成る程と思ったのだった
。
御世がわりに対する深い慮りがこれらのエピソードには込められている。先君と新君、変わりゆく主君に対し、変わらない忠誠心を家中の者達に持続させて行く為の配慮であった。かくて、藩も家も守られて行く。名君と言われた者ほどその後を継ぐ者とのギャップが生じる。それを先人達は様々な知恵によって乗り越えて来たのである。
すべて、人の為になるは我が仕事と知られざる様に、主君へは隠し奉公が真なり。 (聞書第十一 140)
聞書第八・76に出てくる深謀遠慮のエピソードをもう一つ。鍋島主水殿と久納市右衛門とは、仲が悪く、藩主の勝茂公は久納の働きに加増したいと思っておられたが、主水殿の事を慮って控えておられた。ある時、勝茂公が久納の家にお成りになる事となった。それを聞いた主水殿は、勝茂公に久納の加増を進言した。勝茂公は大層喜ばれて、その旨を久納に告げられた。久納は喜んで、早速主水殿にお礼を述べに行ったが、主水殿は「そなたが精を出しているので申し述べただけの事、そなたと仲直りした訳ではない。」と素っ気なかった。その後、主水殿は、死去される直前に久納市右衛門を招かれて次の様に述べられた。
「そなたはお役に立つ人物ではあるが、自慢や奢りの心があるので、私はあえて仲悪くしてそれを抑えてきた。私が死んだ後はそなたを抑える人物はもはや居なくなるであろう。これからは、物事を為す時は随分と人に譲って、主君の御用に立ってくれるように。」と。これを聞いた久納市右衛門は感涙にむせんで帰った。
才能ある人材は、チヤホヤされると高慢になりがちである。そこであえて鍋島主水殿は、抑え役として、嫌われ者を演じて来られたのだった。その本心は亡くなる直前まで隠しておられた。中々並みの人間に出来る事ではない。前項に紹介した話も含めて、これらの話を現代の若い方々に紹介すると、皆一様に唸って「昔の人ってすごいですね。」と感嘆する。
鍋島主水の深謀は、死ぬ直前迄他者に明かさなかった様に、葉隠は「忠義は密かに行うものである」との考えを貫いている。それが、この項の冒頭に紹介している「隠し奉公」である。
「すべて、人の為に行った事でも自分が行った事だと知られない様に、主君には隠して奉公するのが本物である。」更に、「その報いがあった時にはその志に感謝し、その様に心がけて、仇に対しても恩で報い、常に陰徳を心がけて、陽報を望まない事である。」と述べている。「隠し奉公」「陰徳」は人には解らないが、天は承知している。相対の世界に生きるのではなく、絶対の境地に安住する生き方ともいえよう。
以上、「葉隠」について五回連載して来たが、今回で終了し、次回からは「士道」を完成させた山鹿素行に入って行く。
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