「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

「良知」の言葉 第26回「聖人の学は、只だこれ一の誠のみ。」

2023-09-12 14:46:25 | 「良知」の言葉
第26回(令和5年9月12日)
「聖人の学は、只だこれ一の誠のみ。」(『伝習録』下巻二十九)

日本人は「誠」が好きだ。しかし、その意味については、あまり深く理解していないと思う。儒学で「誠」について説いているのは、『中庸』である。有名な「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり。誠は勉めずして中(あた)り、思わずして得、従容として道に中る。聖人なり。これを誠にするは善を択んでこれに固執する者なり。」の一文がある。

誠は天の道であり、その道は人に付与され、人の本性に備わっているのだが、努力し続けなければ表す事は出来ない。それ故「これを誠にする」のが「人の道」に他ならない。その為には「善を択んで」「固執する」事が肝要となる。

『大学』では、「格物(物を格(ただ)す)・致知(知を致す)・誠意(意を誠にする)・正心(心を正す)・修身(身を修める)・斉家(家を斉(ととの)える)・治国(国を治める)・平天下(天下を平にする)」と、日々の格物致知が治国平天下まで繋がる事を述べ、全ての基礎に格物致知がある事を示している。「致知」とは「致良知」である。「格物致知」の上に「誠意正心」がある。「意」を誠にする事で心を正しくする事が出来るのである。この「誠意」に「誠」が出て来る。「意」とは心の動き出す瞬間の方向性を決めるものである。その時に、「意」を誠にするのである。物事に触れて意思が動き出す瞬間に、誠と為しているかどうかが問われるのである。

少し、理屈ぽくなったが、要は、意思が動き出すその瞬間に、「天の道」に合致しているかどうかを弁別して、誠の心を表し出すのだ。その為には、意思を惑わすものを勉めて排除する必要がある。その弁別する働きの主体が「良知」であり、弁別する事が「致良知」に他ならない。それ故に、聖人の学は、只だこれ一の誠のみ」なのだ。

王陽明は、55歳の時に南元善に答えた書翰(『王陽明全集』第二巻「文録」書の三)の中で、真理をかき消してしまう様な暗澹たる世情を憂えながらも「至誠にして動かざるもの、未だこれあらざるなり」と説いている。誠を尽す事で、人々は必ず変わって行く事を教え諭している。この言葉は『孟子』にあり、『中庸』と同じ言葉の「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり。」の次に出て来る言葉である。「至誠にして動かざるもの、未だこれあらざるなり」について、中国文学研究者の金谷治氏は「至誠はよく人を動かす。「善に明らか」つまり善悪を見わける道徳的な感覚を鋭敏にして、内的な身の誠が輝き出でてこそ、親に悦ばれ、友に信ぜられ、上位者に信任されて、民を治めることもできるのである。それは、誠こそ天の道、動かしがたい厳然たる存在で、その誠を思い慕うのこそが人としての当然な道だからである。」(新訂中国古典選『孟子』)と解説されている。

私は、学生時代に山岡荘八『吉田松陰』を読んで孟子の中のこの言葉を初めて知った。吉田松陰が生涯の指針とした言葉であり、私の信條にもなっている。王陽明も、この言葉を弟子に贈って自他ともに世情に立ち向かう糧としたのである。

 
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