
沖縄訪問報告(平成19年9月28日~10月2日)
1、県民集会(9月29日)
①会場の広さと参加者数
開会2時間前に会場に行き、集会場の大体の広さを足で実測した。横が179歩、縦が通路を挟んで後ろが60歩・前が62歩だった。私の一歩は大体60cmなので、横が107.4m、縦が36mと37.2m。総面積は7861.68㎡。集会は座って聞いていたので、1㎡に2人がせいぜい。
私の周りでは左側と前にスペースがあった。会場内では日傘を射している人が居て、それが視覚を遮るために空きスペースが出来た。大会の途中で20人くらいの実行委員がカンパ袋を持って会場内をくまなく歩いてカンパを集めて回っていた(678万9736円集まったとアナウンスしていた)ので、彼らが歩き回れる位の空きスペースがあった。
そこで、この区域の参加者数は1万5千人位である。但し、私が実測したのは集会で座るために割り当てられた区域、その周辺にも人は居たので、少しは増える。せいぜい2万名ではないのか。
会場舞台裏側の体育館のバルコニーから警察らしき人二人が会場を展望していたので、警察は人数を把握しているはず。数日後、県警関係者に話しを聞いたが、警察発表は左翼が「根拠を示せ」と抗議してくるので出していないとの事。会場の広さや空きスペースから考えて2万から3万の間だろうと言っていた。
幸い(?)「琉球新報」が翌日の朝刊に会場全景を2面に亙る大きな写真で掲載していたので、それを20部注文した。大学生にお願いして実際の数を数えてもらおうと考えている。尚、この証拠写真が欲しい人は、(0120)395069に電話して9月30日の朝刊を送って欲しいといえば、振替用紙同封で送ってくれる(1部100円)。
虚構の数字を元に「沖縄県民の総意」と称して文部科学省に政治圧力をかけているので、数字の実態を明らかにすることが極めて重要。
②動員の実態
連日、琉球新報と沖縄タイムズが1面を始め特集を組んで煽って参加を呼びかけていた。27日には無料バス券(片道)まで印刷されていた。団体や役場など貸し切りバスが3箇所の駐車場を埋めていた(バスの数を数えなかった事が悔やまれる)。
会場の後ろ半分は労組の動員、後ろの真ん中当りには公明党の旗が多数立てられていた。普天間地区では自治会も動員を呼びかけているらしく、歩いて帰っている人も多数居た。野球部の高校生がスクールバスで来ていた。県外からも日教組などが動員していた。青森の日教組が一人で参加していた。
③集まった雑多な団体
会場では、「琉球独立」を訴える大きな旗を持って歩き回る人や、革マル派なども公然とビラを配り革命を訴えていた。琉球大自治会が4人で情宣をしていた。参加者に配られるチラシは極左のものが殆どで、集会を左翼が如何に利用せんとしているかが伺われた。公安情報によると、革マル派が十数名、中核派も来ており翌日の中核派機関紙「前進」に大会の様子が掲載されたとの事。
④発表者および反応について
仲井間知事の挨拶は原稿の棒読みでいやいやながら登壇させられている感じを受けた。実際、発表後は退席していた。それ以外は、完全なアジ演説であり、情念に訴えかけるものだった。
だが、演説の途中で合いの手が入り、拍手が何度も巻き起こるという事は殆ど無かった。発表者は感情に訴えかけて演説を終えるので、演説終了後は全体から拍手が起こりはしたが、政治集会独特の熱気は余り感じられなかった。前に居たおばさんは終始横を向いて眠そうにしていたし、その横では、演説途中にもかかわらず携帯電話で人探しをしている親子連れも居た。
婦人会の代表が「軍は住民を決して守らない」と絶叫していたのが印象的だった。高校生二人が交代しながら文章を読み訴えていたのは、何か作為を感じた。おじいさんやおばあさんを信じる純朴な態度は良しとしたいが、「真実」に対する考え方が固定的であり、「真実探求」の意味が良く解っていないのは可哀そうな気がした。警察の方によると、この様な大会で発表した高校生にはその後、左翼セクトから必ず声がかかって「活動家」にさせられて行くそうである。
集会全体のトーンが、これまで沖縄の教育現場で教えられて来た事を変えるべきでは無いという事で、日教組の反戦反軍平和教育を守れ、と叫んでいるに過ぎない。
双眼鏡で舞台上の人を見たが、私が知っている県議は居なかった。全ての県議が参加した訳ではないようだ。
⑤渡嘉敷からの参加者
集会前日に、地元の方とお会いして色々とお話をお伺いしたが、渡嘉敷では赤松大尉の悪口を言う人は殆どおらず、明日の集会にも村長や議員は義理で参加せざるを得ないが住民の参加は殆ど無い(沖教組は別)との事だった。渡嘉敷で反軍を主張するのは、赤松部隊にスパイ容疑で処刑された人の親族一人と吉川教育委員長だけ。
実際、集会で吉川教育委員長が登壇したが、会場からの拍手は2・3人だけだった。渡嘉敷からは殆ど参加していない証拠である。集団自決の犯人探しをすれば、住民同士が責任をなすりあう事になってしまうので、渡嘉敷の人々はそっとしておいて欲しいというのが本音だと語られていた。
⑥真実を訴えるチラシ配布
恵忠久氏のグループ27名が「軍命令は存在しない」事を主張するチラシを2万枚配布された。手伝っているメンバーには若い人も多かった(沖縄では小林よしのり氏の講演会に1500名の若者が集まったそうで、その中から協力者が出てきているとの事)。文句を言う人は2・3人は居たが、揉め事は起こらなかった様だ。バス駐車場から会場に向かう道路で配られていたので、歩きながら読んでいる人が結構居た。
⑦マスコミの煽動
前日から入って町の様子を見たが、道路の所々に横断幕があったり、店(薬屋)にポスターが貼ってあった位で、町中が反対し集会への参加を呼びかけているような感じは殆ど見受けられなかった。だが、新聞2紙は異常で朝刊・夕刊共にこの問題ばかり特集して集会参加を煽っていた。その上で、虚構の「11万参加」を大々的に報じているのだから、マスコミが煽って生み出した集会に他ならない。
2、渡嘉敷訪問(9月30日)
①レンタカーを借りて回ったが、地元の方が詳しい地図を用意して同行案内して戴いた。渡嘉敷では、戦闘の記録を「沖縄戦記」「渡嘉敷島の戦闘概要」「陣中日誌(海上挺身第三戦隊)」から引用してデータベース化したり、慰霊塔の戦歿者名の検証作業を行ったりして、冷静・客観的に真実に迫ろうとされていた。先ず、渡嘉志久ビーチ(米軍上陸)に残る「特攻船艇待避壕」、赤松部隊が建立し曽野綾子氏の文章が彫られた「戦跡碑」、阿波連ビーチ(米軍上陸)、「アリランの碑」(碑文は酷い内容、建立時以来韓国人の参拝客は皆無との事)を回り、その後、「白玉の碑」に参拝し香を手向ける。「大東亜戦々没者御芳名」として軍人軍属・防衛隊・一般住民共に名を刻まれ祀ってあり、綺麗に清掃してあった。その後、北山(赤間山)の自決記念碑とその裏の自決現場(谷間)にお参りし、30メートルばかり離れた軍本部壕の近くに行く。
②軍民共に祀ってある「白玉の碑」、赤松部隊が建立した「戦跡碑」などは補修され清掃され美しく管理されていた。地元の住民の赤松部隊への気持ちがこの管理状況の中に示されていた。
③午後は、吾々だけで渡嘉敷・阿波連の住民が自決現場まで通った道を辿り恩納川のダム貯水池に行き往時に思いを馳せた。
④渡嘉敷に行く船で、前日の集会に参加していた社民党国会議員の保坂氏が同乗していた。私は、渡嘉敷の全景を把握したいと思って、船のテラス部分に立ったまま景色を眺めていたが、保坂氏は船室に入ったきり上がっては来なかった。取り巻き二人の内の一人が写真を撮りに上がって来たが、何も知らないらしく、私に「どれが渡嘉敷ですか」など聞いてきた。私が「地形を見れば米軍が西海岸から上陸してきた事が良く解りますね」と鎌をかけたら「米軍が」と言ったまま絶句して何も言わなくなった。歴史に関して全く無知なのだろう。保坂氏はマスコミを引き連れて来ていた。マスコミも馬鹿で、渡嘉敷の前にある島を勘違いして撮影して、その後は船室に戻って行った。
⑤渡嘉敷では、白玉の碑や自決現場で線香を焚いて戦歿者の冥福を祈り、日本を、沖縄をお守りくださいと祈りを捧げた、だが、吾々以外に線香などを手向けた痕跡は全く無かった。保坂氏は「犠牲者」の霊に手を合わせたのだろうか?何をしに渡嘉敷に行ったのか知らないが、慰霊の心無き者に事件を語る資格は無い。
3、座間味訪問(10月1日)
①座間味では、タクシーで「自決碑」「平和の塔」「忠魂碑」を回った。渡嘉敷では、住民はかなり山奥に逃げて集団自決していたが、ここでは、港の集落の直ぐ近くの丘の麓で亡くなられていた。「平和の塔」に行く山道は滑りやすく、殆ど人々の訪問の形跡は無かった。清掃もあまりなされていない感じがした。碑文には県別の戦歿者の名前が記されていた。吾々は線香を焚いてお参りした。ただ、タクシーの運転手によると、三重県や神奈川県から十一月頃に慰霊に来られるとの事であった。
②米軍上陸時に村長が住民に集合をかけた「忠魂碑」は村落から裏山に行く途中にあった。皇紀2650年に建立され、陸軍大将井上幾太郎書の忠魂碑は今尚厳然と立っていた。狭い島に米軍が上陸せんとした時、村長を始めとする村の指導者達はこの忠魂碑を最後の場と定め、英霊と共に死して祖国を守らんと思ったのではなかったのか。その思いが伝わる様であった。実際は、空襲が始まり、この場には集合できず、追い詰められた幾つかの場所で自決が行われたのだった。
③忠魂碑に向かう途中で、29日の集会で発表した宮里芳和氏と偶然お会いした。知人に聞くと宮里氏は1年くらい前は「島には梅沢氏を恨む人は居ない」などと証言していたのだが、今や「日本軍」糾弾の最先鋒で、マスコミにも登場し大きく取り上げられ、29日の集会でも登壇したのだった。吾々にも「集会での私の話は聞きましたか」と述べて、その後「軍人訓を強要したり、軍が民間の家に中に入っていた事がおかしいのです」などと反軍思想を盛んに述べていた。宮里氏は琉球新報の座間味特派員もしており、かなり左翼学者のオルグで洗脳されているようだった。
4、摩文仁の丘(9月30日)
同伴した人が沖縄は初めてだというので、時間を見つけて中部戦跡や海軍壕、南部戦跡を案内した。ひめゆりの塔前では、「語り部」が若い人を相手に、ひめゆり部隊が「日本軍に死を強要された」と感情的に話していた。もはや沖縄の戦跡では日本軍とそれに献身的に協力した沖縄県民の姿は語られず、沖縄県民に死を強要した鬼の如き日本軍の事ばかりが語られている。
かつては南部戦跡と言えば摩文仁の丘にある平和祈念公園を訪れたものだが、今やその手前に平和祈念塔が建てられ、沖縄県民を始めとし全国から沖縄戦でなくなった戦歿者の名前が記された石版が多数建てられておりそこが慰霊の中心地の如くなっていた。敷地が広大なため、その更に奥にある平和祈念公園の存在さえ解らなくなってしまう。私は何度も訪れた事があるのだが、今回は迷って摩文仁の丘の場所が解らずに警備員さんに教えてもらった。
夕暮れ時に行った為か、各県の慰霊塔の区域が寂しく感じられた。「黎明の塔」の横に牛島中将と長参謀長の自決壕があるが、その場所の表示は無くなっていた。その下には健児の塔があるはずだが、道はロープでふさがれ立ち入り禁止になっていた。台風か何かで道が通れないのだったらその旨記しておくべきだと思うが、その標識さえなかった。日本軍と沖縄県民を切り離す悪意が沖縄県民の中に浸透していった時、この摩文仁の丘はどうなっていくのか空恐ろしい感じがした。
5、その他
①恵忠久氏にお聞きした話
「戦陣訓」は軍隊教育の中だけで言われていたのであり、当時の学校教育・皇民化教育では全く教えられていない。戦陣訓の思想を流布したのは朝日新聞を始めとするマスコミだった。
②末安沖縄県神社庁長にお聞きした話
(末安氏が)戦争体験者から次のお話を聞いた。「那覇に米軍が迫って来た時に、住民は北部へ避難するように指示したが、誰も聞かず、不安がって軍隊についていけば何とかなると南部へと避難して行った。大衆心理はおそろしい。」
1、県民集会(9月29日)
①会場の広さと参加者数
開会2時間前に会場に行き、集会場の大体の広さを足で実測した。横が179歩、縦が通路を挟んで後ろが60歩・前が62歩だった。私の一歩は大体60cmなので、横が107.4m、縦が36mと37.2m。総面積は7861.68㎡。集会は座って聞いていたので、1㎡に2人がせいぜい。
私の周りでは左側と前にスペースがあった。会場内では日傘を射している人が居て、それが視覚を遮るために空きスペースが出来た。大会の途中で20人くらいの実行委員がカンパ袋を持って会場内をくまなく歩いてカンパを集めて回っていた(678万9736円集まったとアナウンスしていた)ので、彼らが歩き回れる位の空きスペースがあった。
そこで、この区域の参加者数は1万5千人位である。但し、私が実測したのは集会で座るために割り当てられた区域、その周辺にも人は居たので、少しは増える。せいぜい2万名ではないのか。
会場舞台裏側の体育館のバルコニーから警察らしき人二人が会場を展望していたので、警察は人数を把握しているはず。数日後、県警関係者に話しを聞いたが、警察発表は左翼が「根拠を示せ」と抗議してくるので出していないとの事。会場の広さや空きスペースから考えて2万から3万の間だろうと言っていた。
幸い(?)「琉球新報」が翌日の朝刊に会場全景を2面に亙る大きな写真で掲載していたので、それを20部注文した。大学生にお願いして実際の数を数えてもらおうと考えている。尚、この証拠写真が欲しい人は、(0120)395069に電話して9月30日の朝刊を送って欲しいといえば、振替用紙同封で送ってくれる(1部100円)。
虚構の数字を元に「沖縄県民の総意」と称して文部科学省に政治圧力をかけているので、数字の実態を明らかにすることが極めて重要。
②動員の実態
連日、琉球新報と沖縄タイムズが1面を始め特集を組んで煽って参加を呼びかけていた。27日には無料バス券(片道)まで印刷されていた。団体や役場など貸し切りバスが3箇所の駐車場を埋めていた(バスの数を数えなかった事が悔やまれる)。
会場の後ろ半分は労組の動員、後ろの真ん中当りには公明党の旗が多数立てられていた。普天間地区では自治会も動員を呼びかけているらしく、歩いて帰っている人も多数居た。野球部の高校生がスクールバスで来ていた。県外からも日教組などが動員していた。青森の日教組が一人で参加していた。
③集まった雑多な団体
会場では、「琉球独立」を訴える大きな旗を持って歩き回る人や、革マル派なども公然とビラを配り革命を訴えていた。琉球大自治会が4人で情宣をしていた。参加者に配られるチラシは極左のものが殆どで、集会を左翼が如何に利用せんとしているかが伺われた。公安情報によると、革マル派が十数名、中核派も来ており翌日の中核派機関紙「前進」に大会の様子が掲載されたとの事。
④発表者および反応について
仲井間知事の挨拶は原稿の棒読みでいやいやながら登壇させられている感じを受けた。実際、発表後は退席していた。それ以外は、完全なアジ演説であり、情念に訴えかけるものだった。
だが、演説の途中で合いの手が入り、拍手が何度も巻き起こるという事は殆ど無かった。発表者は感情に訴えかけて演説を終えるので、演説終了後は全体から拍手が起こりはしたが、政治集会独特の熱気は余り感じられなかった。前に居たおばさんは終始横を向いて眠そうにしていたし、その横では、演説途中にもかかわらず携帯電話で人探しをしている親子連れも居た。
婦人会の代表が「軍は住民を決して守らない」と絶叫していたのが印象的だった。高校生二人が交代しながら文章を読み訴えていたのは、何か作為を感じた。おじいさんやおばあさんを信じる純朴な態度は良しとしたいが、「真実」に対する考え方が固定的であり、「真実探求」の意味が良く解っていないのは可哀そうな気がした。警察の方によると、この様な大会で発表した高校生にはその後、左翼セクトから必ず声がかかって「活動家」にさせられて行くそうである。
集会全体のトーンが、これまで沖縄の教育現場で教えられて来た事を変えるべきでは無いという事で、日教組の反戦反軍平和教育を守れ、と叫んでいるに過ぎない。
双眼鏡で舞台上の人を見たが、私が知っている県議は居なかった。全ての県議が参加した訳ではないようだ。
⑤渡嘉敷からの参加者
集会前日に、地元の方とお会いして色々とお話をお伺いしたが、渡嘉敷では赤松大尉の悪口を言う人は殆どおらず、明日の集会にも村長や議員は義理で参加せざるを得ないが住民の参加は殆ど無い(沖教組は別)との事だった。渡嘉敷で反軍を主張するのは、赤松部隊にスパイ容疑で処刑された人の親族一人と吉川教育委員長だけ。
実際、集会で吉川教育委員長が登壇したが、会場からの拍手は2・3人だけだった。渡嘉敷からは殆ど参加していない証拠である。集団自決の犯人探しをすれば、住民同士が責任をなすりあう事になってしまうので、渡嘉敷の人々はそっとしておいて欲しいというのが本音だと語られていた。
⑥真実を訴えるチラシ配布
恵忠久氏のグループ27名が「軍命令は存在しない」事を主張するチラシを2万枚配布された。手伝っているメンバーには若い人も多かった(沖縄では小林よしのり氏の講演会に1500名の若者が集まったそうで、その中から協力者が出てきているとの事)。文句を言う人は2・3人は居たが、揉め事は起こらなかった様だ。バス駐車場から会場に向かう道路で配られていたので、歩きながら読んでいる人が結構居た。
⑦マスコミの煽動
前日から入って町の様子を見たが、道路の所々に横断幕があったり、店(薬屋)にポスターが貼ってあった位で、町中が反対し集会への参加を呼びかけているような感じは殆ど見受けられなかった。だが、新聞2紙は異常で朝刊・夕刊共にこの問題ばかり特集して集会参加を煽っていた。その上で、虚構の「11万参加」を大々的に報じているのだから、マスコミが煽って生み出した集会に他ならない。
2、渡嘉敷訪問(9月30日)
①レンタカーを借りて回ったが、地元の方が詳しい地図を用意して同行案内して戴いた。渡嘉敷では、戦闘の記録を「沖縄戦記」「渡嘉敷島の戦闘概要」「陣中日誌(海上挺身第三戦隊)」から引用してデータベース化したり、慰霊塔の戦歿者名の検証作業を行ったりして、冷静・客観的に真実に迫ろうとされていた。先ず、渡嘉志久ビーチ(米軍上陸)に残る「特攻船艇待避壕」、赤松部隊が建立し曽野綾子氏の文章が彫られた「戦跡碑」、阿波連ビーチ(米軍上陸)、「アリランの碑」(碑文は酷い内容、建立時以来韓国人の参拝客は皆無との事)を回り、その後、「白玉の碑」に参拝し香を手向ける。「大東亜戦々没者御芳名」として軍人軍属・防衛隊・一般住民共に名を刻まれ祀ってあり、綺麗に清掃してあった。その後、北山(赤間山)の自決記念碑とその裏の自決現場(谷間)にお参りし、30メートルばかり離れた軍本部壕の近くに行く。
②軍民共に祀ってある「白玉の碑」、赤松部隊が建立した「戦跡碑」などは補修され清掃され美しく管理されていた。地元の住民の赤松部隊への気持ちがこの管理状況の中に示されていた。
③午後は、吾々だけで渡嘉敷・阿波連の住民が自決現場まで通った道を辿り恩納川のダム貯水池に行き往時に思いを馳せた。
④渡嘉敷に行く船で、前日の集会に参加していた社民党国会議員の保坂氏が同乗していた。私は、渡嘉敷の全景を把握したいと思って、船のテラス部分に立ったまま景色を眺めていたが、保坂氏は船室に入ったきり上がっては来なかった。取り巻き二人の内の一人が写真を撮りに上がって来たが、何も知らないらしく、私に「どれが渡嘉敷ですか」など聞いてきた。私が「地形を見れば米軍が西海岸から上陸してきた事が良く解りますね」と鎌をかけたら「米軍が」と言ったまま絶句して何も言わなくなった。歴史に関して全く無知なのだろう。保坂氏はマスコミを引き連れて来ていた。マスコミも馬鹿で、渡嘉敷の前にある島を勘違いして撮影して、その後は船室に戻って行った。
⑤渡嘉敷では、白玉の碑や自決現場で線香を焚いて戦歿者の冥福を祈り、日本を、沖縄をお守りくださいと祈りを捧げた、だが、吾々以外に線香などを手向けた痕跡は全く無かった。保坂氏は「犠牲者」の霊に手を合わせたのだろうか?何をしに渡嘉敷に行ったのか知らないが、慰霊の心無き者に事件を語る資格は無い。
3、座間味訪問(10月1日)
①座間味では、タクシーで「自決碑」「平和の塔」「忠魂碑」を回った。渡嘉敷では、住民はかなり山奥に逃げて集団自決していたが、ここでは、港の集落の直ぐ近くの丘の麓で亡くなられていた。「平和の塔」に行く山道は滑りやすく、殆ど人々の訪問の形跡は無かった。清掃もあまりなされていない感じがした。碑文には県別の戦歿者の名前が記されていた。吾々は線香を焚いてお参りした。ただ、タクシーの運転手によると、三重県や神奈川県から十一月頃に慰霊に来られるとの事であった。
②米軍上陸時に村長が住民に集合をかけた「忠魂碑」は村落から裏山に行く途中にあった。皇紀2650年に建立され、陸軍大将井上幾太郎書の忠魂碑は今尚厳然と立っていた。狭い島に米軍が上陸せんとした時、村長を始めとする村の指導者達はこの忠魂碑を最後の場と定め、英霊と共に死して祖国を守らんと思ったのではなかったのか。その思いが伝わる様であった。実際は、空襲が始まり、この場には集合できず、追い詰められた幾つかの場所で自決が行われたのだった。
③忠魂碑に向かう途中で、29日の集会で発表した宮里芳和氏と偶然お会いした。知人に聞くと宮里氏は1年くらい前は「島には梅沢氏を恨む人は居ない」などと証言していたのだが、今や「日本軍」糾弾の最先鋒で、マスコミにも登場し大きく取り上げられ、29日の集会でも登壇したのだった。吾々にも「集会での私の話は聞きましたか」と述べて、その後「軍人訓を強要したり、軍が民間の家に中に入っていた事がおかしいのです」などと反軍思想を盛んに述べていた。宮里氏は琉球新報の座間味特派員もしており、かなり左翼学者のオルグで洗脳されているようだった。
4、摩文仁の丘(9月30日)
同伴した人が沖縄は初めてだというので、時間を見つけて中部戦跡や海軍壕、南部戦跡を案内した。ひめゆりの塔前では、「語り部」が若い人を相手に、ひめゆり部隊が「日本軍に死を強要された」と感情的に話していた。もはや沖縄の戦跡では日本軍とそれに献身的に協力した沖縄県民の姿は語られず、沖縄県民に死を強要した鬼の如き日本軍の事ばかりが語られている。
かつては南部戦跡と言えば摩文仁の丘にある平和祈念公園を訪れたものだが、今やその手前に平和祈念塔が建てられ、沖縄県民を始めとし全国から沖縄戦でなくなった戦歿者の名前が記された石版が多数建てられておりそこが慰霊の中心地の如くなっていた。敷地が広大なため、その更に奥にある平和祈念公園の存在さえ解らなくなってしまう。私は何度も訪れた事があるのだが、今回は迷って摩文仁の丘の場所が解らずに警備員さんに教えてもらった。
夕暮れ時に行った為か、各県の慰霊塔の区域が寂しく感じられた。「黎明の塔」の横に牛島中将と長参謀長の自決壕があるが、その場所の表示は無くなっていた。その下には健児の塔があるはずだが、道はロープでふさがれ立ち入り禁止になっていた。台風か何かで道が通れないのだったらその旨記しておくべきだと思うが、その標識さえなかった。日本軍と沖縄県民を切り離す悪意が沖縄県民の中に浸透していった時、この摩文仁の丘はどうなっていくのか空恐ろしい感じがした。
5、その他
①恵忠久氏にお聞きした話
「戦陣訓」は軍隊教育の中だけで言われていたのであり、当時の学校教育・皇民化教育では全く教えられていない。戦陣訓の思想を流布したのは朝日新聞を始めとするマスコミだった。
②末安沖縄県神社庁長にお聞きした話
(末安氏が)戦争体験者から次のお話を聞いた。「那覇に米軍が迫って来た時に、住民は北部へ避難するように指示したが、誰も聞かず、不安がって軍隊についていけば何とかなると南部へと避難して行った。大衆心理はおそろしい。」
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