おはようございます。
昼は「カフェたまり」夜は「おもてなし家庭料理たまり」のオーナーで陶芸家のクメタマリです。
わたしたちは、今、こんなに食べ物の溢れる時代に生きながら、実際の食べる行動の現場からは隔絶されています。
大昔であれば、それこそ生きる為には、命をかけて、ある命の息の根を止めなくてはは生きられませんでした。
飢餓に見舞われれば、虫を喰い、木の根さえも掘り起こしたのです。
けれども現代、私たちは、命が奪われる現場から隔絶されています。スーパーには、まるで初めから私たちに食べられる為に用意されていたように、確かに生きていた命が、所狭しと並べられています。
肉はその歩く姿を思い起こす事は出来ず、魚は、その泳ぐ姿を思い起こす事は出来ず、総菜となれば、野菜の元の姿さえ、見ることができません。
そこには、故意の隔絶があったように思います。
古くから、ある差別的な地位の人々にその行為を押し付けて、食べる側は罪悪感をその彼らに押し付けて、「食べる事は楽しい事」にすり替えたのです。
気がついた方がいい。
今、そのツケが来ているように思うのです。
昼は「カフェたまり」夜は「おもてなし家庭料理たまり」のオーナーで陶芸家のクメタマリです。
わたしたちは、今、こんなに食べ物の溢れる時代に生きながら、実際の食べる行動の現場からは隔絶されています。
大昔であれば、それこそ生きる為には、命をかけて、ある命の息の根を止めなくてはは生きられませんでした。
飢餓に見舞われれば、虫を喰い、木の根さえも掘り起こしたのです。
けれども現代、私たちは、命が奪われる現場から隔絶されています。スーパーには、まるで初めから私たちに食べられる為に用意されていたように、確かに生きていた命が、所狭しと並べられています。
肉はその歩く姿を思い起こす事は出来ず、魚は、その泳ぐ姿を思い起こす事は出来ず、総菜となれば、野菜の元の姿さえ、見ることができません。
そこには、故意の隔絶があったように思います。
古くから、ある差別的な地位の人々にその行為を押し付けて、食べる側は罪悪感をその彼らに押し付けて、「食べる事は楽しい事」にすり替えたのです。
気がついた方がいい。
今、そのツケが来ているように思うのです。