韓国人、朝鮮人の民族の
根底には「恨(ハン)」があります。
=晴らすことができない怨・・・それが「恨」である、=
同じアジア人に支配された屈辱は永遠の「恨」なのでしょう。
戦前、日本以外はヨーロッパの植民地でした、白人に支配されていたことには
「恨」はもっていないのか?
併合時にある日本人一家が韓国人孤児数名を世話をして
日本の大学までいかせてあげました。
日本が敗戦になりと彼らは日本人一家を暴行、レイプで全員暗殺しました。
韓国人はそんな民族です。
関わりたくない国が韓国でしょう。
ソースから
和夫一家殺害事件
朝鮮・韓国人による日本人虐殺事件-『和夫一家殺害事件』
「日帝時代、慶尚道地域の日本人地主であった『和夫一家』は、日本政府の朝鮮移住政策によって、望みもしない朝鮮生活を始める事になった。普段から人情に厚かった和夫さんは、小作料を収穫全体の10分の1しかとらず、村人達を家族のように考え、朝鮮総督府の法令で規定された小作料の中から最低限しかとらなかった。
貧しい朝鮮の小作人が食べ物が無いと哀訴すると、喜んで食べ物を分け与えてあげ、村で誰かが亡くなると、家族全員が駆けつけて食事の用意はもちろん、自ら慟哭までして悲しみを分け合った。
和夫さんはとても人間への暖かい愛情を持った人であった。また、和夫さんの家族は、周囲に孤児がいると連れて帰って面倒を見ていたが、一人、二人と増えていき、1945年にはいつの間にか施設孤児院の規模にまで増えてしまっていた。
しかも、和夫夫婦はこの孤児達を家族のように愛し、自ら喜んでその子達の父母と名乗った。和夫一家は日頃から朝鮮人を愛し、日本の軍国主義を批判していた。だが、天皇の降伏宣言後、自ら育てた『朝鮮人孤児達によって、むごたらしく虐殺された』
和夫の孤児キム・ソンス君の報告
和夫さんが実の子のように育て、東京帝国大学まで留学させていた朝鮮人Aを中心に、和夫さんの家で教育を受け、成人するまで育ててもらった朝鮮人青年達が、カマとツルハシ、シャベルをもって、和夫さんのもとに押しかけた。当時、現場にいたキム・ソンス君は、この時の状況をこう語っている。
和夫:(優しい目で)何故こんなことを、お前たち。
朝鮮人A:チョッパリ!日本へ失せろ!失せろってんだ!!
和夫:(わざと怒り声で)「私が何かお前たちに間違った事をしたかい?お前たちは、みな私の子供達だし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。お前たちの祖国が独立する事は、私も日頃から強く望んできた事だ。踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器を持って私のところに摘めかけてきたんだい?私はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。(涙を流して)本当に悲しいよ、朝鮮の子供達。私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり合う事は出来無いということなのかい?お前たちが望むんなら、帰ってやろう」
朝鮮人A:意味深長な目配せをBに送る。(財産を全部処分して帰ったら、俺達はどうやって食ってくんだ?)
朝鮮人B:死ね!チョッパリ!!(日本人への蔑称)この糞野郎!!!
次々にツルハシが和夫さんの後頭部に振り下ろされ、それと同時にたくさんのシャベルとカマが体をズタズタに引き裂き始めた。和夫さんの妻は耐えられずに飛び出してきた。それまでじっとしていた朝鮮人Cは、和夫さんの妻を見ると、彼女の髪をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。
そして、なんとその和夫の孤児達13人は、一週間前まで「お母さん」と呼んでいた“彼女を強姦し始めた”。彼女はひどい集団強姦の途中で虐殺された。朝鮮人Dは、普段、お母さんと呼んでいた彼女の“全身をめった刺し”にし、それでも足りずに“内臓をかき出して”撒き散らした。
和夫さんには「ひみこ」という娘が一人いた、普段から模範的で良い子だった「ひみこ」は、学校が終わって家に戻り、両親に起きた“惨状を”見ると、気が触れてしまった。当時、「ひみこ」の慟哭が何日も続き、近所の住民は眠れなかったという。その後、孤児となった「ひみこ」は、食べ物乞いに村を回ったが、誰一人見向きもせず、知らないふりをした。結局、「ひみこ」は9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。「ひみこ」は小学六年生だった。和夫の財産は、和夫が精魂込めて大切に育てた朝鮮人孤児達(この恩知らずの鬼畜ども)の手に丸ごと渡り、この事件は、『村人達の沈黙の中で徐々に忘れ去られていった』
日本の敗戦後、南朝鮮地域では9月初めに第24軍団が進駐するまでの約1ヶ月、無政府状態の時期があった。その時、朝鮮に住むに日本人は米軍政府の命令に従って、日本に強制引き上げさせられた、その中には虐殺された日本人も多くいた。」
http://bbs.jpcanada.com/log/6/2950.html
ソースから
果たして韓国の言う「私たちは常に被害者」という姿勢は、本当にその通りなのか。歴史を振り返れば、韓国は過去幾度となく、日本人への蛮行を繰り返してきた。
11歳の時、朝鮮北部から命からがら京城に脱出した日系米国人作家、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ(旧名・川嶋擁子)の自伝『竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記』(ハート出版刊)。引揚の記録をありのままに綴った同書は、今から約30年前の1986年に米国で出版され、後に一部の州で中学校の教材になった。
だが、韓国人と韓国系米国人がこれに猛反発。執拗な抗議活動を繰り返し、韓国外交通商部が州政府に是正を求める事態に発展した。実は同書は、2005年に韓国でも翻訳出版されているが、こちらも発売禁止に追い込まれている。韓国主要紙も「間違った『ヨーコの話』学びたくない」(朝鮮日報)、「『ヨーコの話』の最大の過ちは加害者と被害者を入れ替えた点」(中央日報)と題した特集記事を掲載し、メディアを挙げてネガティブ・キャンペーンを行った。
在留邦人、引揚者を襲った悲劇の痕跡は、日本国内にも残されていた。福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にかつて存在した『二日市保養所』の存在だ。この保養所は、引揚の途中に朝鮮人らに犯され妊娠した女性の救済施設堕胎手術を秘密裏に行う病院だった。当時、堕胎手術は違法(*)であったが、施設は引揚援護庁が1946年2月に開設したもので、厚生省が「超法規的措置」として黙認していた側面がある。
【*現在も刑法上の堕胎罪は存置されているが、母体保護法では「妊娠の継続、分娩が身体的・経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのある者」、「暴行・脅迫により抵抗、拒絶できず姦淫され妊娠した者」などに対する指定医の処置が認められている】
同施設の医務主任・橋爪将氏による1946年6月10日付の報告書によれば、施設の開設から2か月間で強姦被害者47人を治療し、加害男性の国籍内訳は「朝鮮28人、ソ連8人、支那6人、米国3人、台湾・フィリピンが各1人」だった。1947年の施設閉鎖まで、堕胎手術件数は500件に及んだという。
戦時中の日本人の残虐性を世界中で訴えている韓国人は、この事実をどう受け止めるのだろうか。
日本人が戦時中に犯した罪は、真摯に反省しなければならない。しかし、だからといって、日本人が受けた残虐行為を、歴史から消し去ることもできぬ。正しき歴史を知ることが、真の日韓友好につながるのではないか。
※SAPIO2015年7月号
根底には「恨(ハン)」があります。
=晴らすことができない怨・・・それが「恨」である、=
同じアジア人に支配された屈辱は永遠の「恨」なのでしょう。
戦前、日本以外はヨーロッパの植民地でした、白人に支配されていたことには
「恨」はもっていないのか?
併合時にある日本人一家が韓国人孤児数名を世話をして
日本の大学までいかせてあげました。
日本が敗戦になりと彼らは日本人一家を暴行、レイプで全員暗殺しました。
韓国人はそんな民族です。
関わりたくない国が韓国でしょう。
ソースから
和夫一家殺害事件
朝鮮・韓国人による日本人虐殺事件-『和夫一家殺害事件』
「日帝時代、慶尚道地域の日本人地主であった『和夫一家』は、日本政府の朝鮮移住政策によって、望みもしない朝鮮生活を始める事になった。普段から人情に厚かった和夫さんは、小作料を収穫全体の10分の1しかとらず、村人達を家族のように考え、朝鮮総督府の法令で規定された小作料の中から最低限しかとらなかった。
貧しい朝鮮の小作人が食べ物が無いと哀訴すると、喜んで食べ物を分け与えてあげ、村で誰かが亡くなると、家族全員が駆けつけて食事の用意はもちろん、自ら慟哭までして悲しみを分け合った。
和夫さんはとても人間への暖かい愛情を持った人であった。また、和夫さんの家族は、周囲に孤児がいると連れて帰って面倒を見ていたが、一人、二人と増えていき、1945年にはいつの間にか施設孤児院の規模にまで増えてしまっていた。
しかも、和夫夫婦はこの孤児達を家族のように愛し、自ら喜んでその子達の父母と名乗った。和夫一家は日頃から朝鮮人を愛し、日本の軍国主義を批判していた。だが、天皇の降伏宣言後、自ら育てた『朝鮮人孤児達によって、むごたらしく虐殺された』
和夫の孤児キム・ソンス君の報告
和夫さんが実の子のように育て、東京帝国大学まで留学させていた朝鮮人Aを中心に、和夫さんの家で教育を受け、成人するまで育ててもらった朝鮮人青年達が、カマとツルハシ、シャベルをもって、和夫さんのもとに押しかけた。当時、現場にいたキム・ソンス君は、この時の状況をこう語っている。
和夫:(優しい目で)何故こんなことを、お前たち。
朝鮮人A:チョッパリ!日本へ失せろ!失せろってんだ!!
和夫:(わざと怒り声で)「私が何かお前たちに間違った事をしたかい?お前たちは、みな私の子供達だし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。お前たちの祖国が独立する事は、私も日頃から強く望んできた事だ。踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器を持って私のところに摘めかけてきたんだい?私はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。(涙を流して)本当に悲しいよ、朝鮮の子供達。私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり合う事は出来無いということなのかい?お前たちが望むんなら、帰ってやろう」
朝鮮人A:意味深長な目配せをBに送る。(財産を全部処分して帰ったら、俺達はどうやって食ってくんだ?)
朝鮮人B:死ね!チョッパリ!!(日本人への蔑称)この糞野郎!!!
次々にツルハシが和夫さんの後頭部に振り下ろされ、それと同時にたくさんのシャベルとカマが体をズタズタに引き裂き始めた。和夫さんの妻は耐えられずに飛び出してきた。それまでじっとしていた朝鮮人Cは、和夫さんの妻を見ると、彼女の髪をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。
そして、なんとその和夫の孤児達13人は、一週間前まで「お母さん」と呼んでいた“彼女を強姦し始めた”。彼女はひどい集団強姦の途中で虐殺された。朝鮮人Dは、普段、お母さんと呼んでいた彼女の“全身をめった刺し”にし、それでも足りずに“内臓をかき出して”撒き散らした。
和夫さんには「ひみこ」という娘が一人いた、普段から模範的で良い子だった「ひみこ」は、学校が終わって家に戻り、両親に起きた“惨状を”見ると、気が触れてしまった。当時、「ひみこ」の慟哭が何日も続き、近所の住民は眠れなかったという。その後、孤児となった「ひみこ」は、食べ物乞いに村を回ったが、誰一人見向きもせず、知らないふりをした。結局、「ひみこ」は9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。「ひみこ」は小学六年生だった。和夫の財産は、和夫が精魂込めて大切に育てた朝鮮人孤児達(この恩知らずの鬼畜ども)の手に丸ごと渡り、この事件は、『村人達の沈黙の中で徐々に忘れ去られていった』
日本の敗戦後、南朝鮮地域では9月初めに第24軍団が進駐するまでの約1ヶ月、無政府状態の時期があった。その時、朝鮮に住むに日本人は米軍政府の命令に従って、日本に強制引き上げさせられた、その中には虐殺された日本人も多くいた。」
http://bbs.jpcanada.com/log/6/2950.html
ソースから
果たして韓国の言う「私たちは常に被害者」という姿勢は、本当にその通りなのか。歴史を振り返れば、韓国は過去幾度となく、日本人への蛮行を繰り返してきた。
11歳の時、朝鮮北部から命からがら京城に脱出した日系米国人作家、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ(旧名・川嶋擁子)の自伝『竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記』(ハート出版刊)。引揚の記録をありのままに綴った同書は、今から約30年前の1986年に米国で出版され、後に一部の州で中学校の教材になった。
だが、韓国人と韓国系米国人がこれに猛反発。執拗な抗議活動を繰り返し、韓国外交通商部が州政府に是正を求める事態に発展した。実は同書は、2005年に韓国でも翻訳出版されているが、こちらも発売禁止に追い込まれている。韓国主要紙も「間違った『ヨーコの話』学びたくない」(朝鮮日報)、「『ヨーコの話』の最大の過ちは加害者と被害者を入れ替えた点」(中央日報)と題した特集記事を掲載し、メディアを挙げてネガティブ・キャンペーンを行った。
在留邦人、引揚者を襲った悲劇の痕跡は、日本国内にも残されていた。福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にかつて存在した『二日市保養所』の存在だ。この保養所は、引揚の途中に朝鮮人らに犯され妊娠した女性の救済施設堕胎手術を秘密裏に行う病院だった。当時、堕胎手術は違法(*)であったが、施設は引揚援護庁が1946年2月に開設したもので、厚生省が「超法規的措置」として黙認していた側面がある。
【*現在も刑法上の堕胎罪は存置されているが、母体保護法では「妊娠の継続、分娩が身体的・経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのある者」、「暴行・脅迫により抵抗、拒絶できず姦淫され妊娠した者」などに対する指定医の処置が認められている】
同施設の医務主任・橋爪将氏による1946年6月10日付の報告書によれば、施設の開設から2か月間で強姦被害者47人を治療し、加害男性の国籍内訳は「朝鮮28人、ソ連8人、支那6人、米国3人、台湾・フィリピンが各1人」だった。1947年の施設閉鎖まで、堕胎手術件数は500件に及んだという。
戦時中の日本人の残虐性を世界中で訴えている韓国人は、この事実をどう受け止めるのだろうか。
日本人が戦時中に犯した罪は、真摯に反省しなければならない。しかし、だからといって、日本人が受けた残虐行為を、歴史から消し去ることもできぬ。正しき歴史を知ることが、真の日韓友好につながるのではないか。
※SAPIO2015年7月号