TVやマスコミが報じない、だから日本人はこのような外国人の
子供たちの状況を全く知らない。
4月から移民の自由化でさらに外国人が日本へやってくる。
日本語ができない外国人だらけの日本になっています。
新潟のこんな田舎でも日本語でない言語が飛び交っています。
大声での会話ですぐわかる。
国会で取り上げることもまったくしない。
与党、野党は腐りきっている。
日本の土地が買われて状況に危機感を持たない日本人、、、
どうすればいいんだろう。。。
20年もすればこの世からいなくなる私ですが
やはり、気になる。
そーすから
ギャング化する外国籍の子供たち
今年9月、文部科学省は、日本に住む外国籍の子供のうち、15.8%に当たる約2万人が不就学になっている可能性があると発表した。不就学とは、不登校と異なり、学校に籍がない状態を示す。
日本には、工場や建設業の仕事を求めて来日してくる外国人が年々増加しており、その中には子供を連れてくるケースも少なくない。
こうした子供たちは家庭環境や日本語の壁にぶつかり、学校へ入学しないか、入学しても途中で辞めてしまうことがある。外国人は「義務教育」ではないので、学校を辞めて社会とのつながりが断ち切れるということが起きてしまうのだ。
彼らは学校へ行かなくなることで社会福祉や地域とつながりがなくなり、漂流していってしまうことが多い。児童労働に取り込まれたり、非行化してギャングとなって事件を起こしたりするケースもある。
日本が労働力を外国人に頼らざるを得えない状況の中で、こうした子供たちに光を当てるのは間違いではないだろう。
ここでは、日本の教育からこぼれ落ちた二人の南米出身の日系人の子供に光を当ててみたい。
池長ミツヨシ
池長は日本に来て20年になる。全身にタトゥーを入れ、建築の仕事をしながら、家庭を持って子供も育てている。だが、ほとんどと言っていいほど日本語をしゃべることができない。日本人の子供に例えれば、4歳前後のボキャブラリーだろう。その原因が、彼の「不就学」にあるのは明らかだ。
池長はブラジルの貧しい町で生まれ育った。父親はいろんなところに女をつくり、子供を生ませていた。池長もそうして生まれた子供の一人であり、物心ついた時には父親は離婚していなくなっていた。父親はブラジルで生活が成り立たなくなり、日系人だった母親を頼って日本へ行ってしまっていたのである。
母親の元で池長は小学5年生まで過ごすが、家は貧しく生活もギリギリだった。そのため、日本で暮らす父親のところへ預けられることになった。
日本で父親は契約社員として肉体労働をしていたが、女性をつくって遊び歩いており、池長はネグレクト状態に置かれた。池長はご飯さえ食べられない日々がつづいたが、日本語ができない上、学校にも行っていなかったので、助けを求めることさえできない。
小学6年のある日、父親に殴られたのをきっかけに、池長は家出をした。だが、彼には行先も、助けを求めるだけの語学力もなく、汚い橋の下で暮らしはじめた。12歳でホームレスになったのだ。
池長の言葉である。
「橋の下で生活したのは、寒いから。あと捕まるのが怖いから。痛いし、怖い。でも、家よりいい。(父親は自分のことを)捜してくれなかった。邪魔だったと思う」
下水の臭いが漂う橋の下で、拾ってきた段ボールを敷いてベッドにし、布団替わりに汚れたタオルに身を包んだという。
池長は公園の水を飲んだり、コンビニのゴミ箱を漁ったりして飢えをしのいだ。風邪をひいたこともあっただろうが、そんなことに気づく余裕もなかったという。
驚くことに、ホームレス生活は3年に及んだ。もし池長が日本人であれば、このようなことは起きなかったはずだ。家庭が荒んでいても、学校や親戚が気づいて捜索願を出していただろうし、地元の人々も日本人が橋の下で寝泊まりしていれば手を差し伸べたはずだ。「外国人」だからこそ、人々の無関心の下でこうしたことが起きてしまうのである。
15歳の時、池長はようやくホームレス生活に終止符を打つことができた。建設業のオーナーに声を掛けられ、働かせてもらえることになったのだ。違法な児童労働であり、日当も低かった。だが、3年も橋の下で暮らしていた池長にしてみれば、天から下りてきた蜘蛛の糸のようなものだった。彼はその会社で働き、屋根の下で生きていくことができるようになった。
池長は言う。
「あそこで仕事してなかったら、死んでた。親方、助けてくれた人」
皮肉にも、学校も地域も救ってくれなかった中で、建設業の親方だけが「児童労働」という形で池長に手を差し伸べたのである。
この親方の会社では、同じような境遇の日系ブラジル人の子供たちがたくさん働いていた。ほとんどが学校にも行けず、家庭にもいられず、町をさまよっていた子供たちだった。
彼らは生きるために無我夢中で働き、夜は夜で鬱憤を晴らすように酒を飲み、ドラッグに手を出し、日本人相手に暴力を振るった。それしかストレス解消の術がなかったのだろう。
そして彼らは自分たちのルーツである南米のギャングを真似して、全身にタトゥーを入れた。特徴的なのは、それぞれの体に市外局番のタトゥーが入れられていることだ。南米のギャングは自らが生まれ育ったストリートをギャング名にしてタトゥーにすることが多く、それを真似たのだ。
池長は言う。
「俺の地元はブラジルじゃない。ここ(可児市)。だから、この番号を入れた」
彼らは、可兒こそ自分たちの生きる場所だと思っているのだ。
アチャ
アチャが暮らす静岡県磐田市もブラジル人労働者の多い町として知られている。
磐田市には、かつて"スラム"と呼ばれていたT団地がある。リーマンショック前は住民の多くがブラジル人労働者だった。
アチャはブラジル人ではなく、日系ペルー人だ。両親が出稼ぎ目的で日本に来ていたため、ここで生まれ育ち、小学校へも入学した。だが、内気な性格がたたったのか、日本語がしゃべれるのに、言葉がうまく出ていないと判断され、まったく日本語ができない子供たちのための教室へ送られ、それが嫌で不登校になった。
当時の団地にはあちらこちらにカラースプレーの落書きがあり、外国人たちがドラッグをやっていたり、酒を飲んで暴れていたりしていた。酔って刃物をふり回すような人たちもおり、日本の暴走族さえ近づかなかったという。
アチャは不登校になったことで、そういう若者や大人たちとつるむようになった。学校へ行けば先生から「日本語が下手」と言われ、同級生からは外国人ということでいじめにあう。居場所は団地の外国人の不良たちのたまり場にしかなかったのだ。
アチャは言う。
「本当は真面目にやりたかった。でも、日本の学校がそうさせてくれなかった。あの頃は団地にはそんな人たちがあふれ返っていて、学校へ行かなければ、そういう人たちの輪に入るしかなかった。外を歩けば声を掛けられて誘われるんだから仕方ないじゃん。
今考えれば、本当にスラムみたいな団地だったと思う。俺の住んでいる棟だって、うちの上と下の部屋に住んでいた人が自殺してる。社会に溶け込めなかったんだろうね。そんなふうに死ぬくらいなら、不良とつるんでいた方がずっとかっこよかった。それ以外に選べなかったんだよ」
親からは不良の外国人と付き合うなと言われていた。ドラッグをやっている人たちと一緒にいるくらいなら家に引きこもってくれていた方がよかったのだろう。
だが、当時彼の団地の2LDKの家には、きょうだいや甥っ子など十人が暮らしており、幼子の世話も押し付けられていた。アチャはこうしたプライバシーのまったくない家に留まるつもりはなかった。
団地の環境が変わったのは、2009年のリーマンショックだった。大不況により、工場はブラジル人労働者たちに一家族につき30万円の帰国費用を支払うことを条件に退職を強いた。事実上のリストラである。これによって、団地に暮らしていた大勢の外国人たちが日本を去っていった。
アチャの両親も仕事を失い、一時帰国することを決めた。だが、アチャは日本に残ることを選んだ。
アチャは日本生まれだし、両親が暮らしていた町はペルーでも屈指の治安の悪いスラムだった。一度だけ実家に帰った時、家を出た瞬間に強盗に銃を突きつけられて殺される寸前の体験をした。友達もいない、そんな危険な国へ行くという選択肢はなかったのだ。
両親がペルーへ帰ったため、アチャは団地に一人で取り残された。何があったのか、すぐに仕送りが止まり、アチャは生活に困窮するようになる。家の電気、ガス、水道はすべて強制的に止められ、真っ暗な部屋で空腹に苦しんだ。
アチャは言う。
「金がないから、コンビニから盗んだものを食べたり、公園で水を飲んで腹を膨らましたりしてた。すげえ孤独で頭が壊れそうだった。誰も助けてくれないし、誰に助けを求めていいかわからない。
それで手を出したのがパウダー(危険ドラッグ)だった。盗んだり、奪ったりして金を手に入れれば、すぐに浜松の店に飛んで行って買った。パウダーをやったら、全身が射精する感じになって、嫌なことを全部忘れられるんだ。家に帰るまで我慢できず、くせえ公衆便所でパウダーやっておかしくなってたこともあった」
こんなアチャに手を差し伸べてくれたのが、同じ団地に暮らす不良やその親だった。食べる物がないと聞けばパンを分けてくれたり、小遣いをくれたりした。
アチャは言う。
「団地のみんなに助けてもらって、ここが俺の生きる場所だって思ったね。宝物だよ。この仲間たちと生きて生きたいと思った」
彼は今、その仲間たちとともにラップをやっている。その仲間の体にも、可児市の池長と同じく市外局番のタトゥーが刻み込まれている。彼らにとって、T団地は「異国」ではなく「地元」なのだ。
「外国人」であるがゆえに…
池長とアチャの例からわかるのは、彼らが「外国人」であることから、日本の子供ではありえないような状況に陥っていることだ。
日本人の子供が、池長のように12歳から3年間も橋の下でホームレスとして生きていくことがありえるだろうか。
あるいは、アチャのようなに、ライフラインの止まった団地の部屋に置き去りにされてしまうことがありえるだろうか。
ほとんどのことが、「外国人」であるがゆえに、子供たちが社会から見捨てられた結果として起きていることなのだ。
冒頭に述べたように、今の日本は外国人による労働力に未来を託そうとしている。ならば、外国人の子供に対してそれに見合った支援をしていく必要があるだろう。
池長やアチャは国籍こそ外国かもしれないが、体に地元の市外局番のタトゥーを掘り、そこで定住しようとている。家族も友人もみんなそこにいる。
そう考えた時、私たちは彼らを「外国の子供」ではなく、「日本に暮らす子供」として受け止め、何をすべきかを考えていく必要があるのではないだろうか。
子供たちの状況を全く知らない。
4月から移民の自由化でさらに外国人が日本へやってくる。
日本語ができない外国人だらけの日本になっています。
新潟のこんな田舎でも日本語でない言語が飛び交っています。
大声での会話ですぐわかる。
国会で取り上げることもまったくしない。
与党、野党は腐りきっている。
日本の土地が買われて状況に危機感を持たない日本人、、、
どうすればいいんだろう。。。
20年もすればこの世からいなくなる私ですが
やはり、気になる。
そーすから
ギャング化する外国籍の子供たち
今年9月、文部科学省は、日本に住む外国籍の子供のうち、15.8%に当たる約2万人が不就学になっている可能性があると発表した。不就学とは、不登校と異なり、学校に籍がない状態を示す。
日本には、工場や建設業の仕事を求めて来日してくる外国人が年々増加しており、その中には子供を連れてくるケースも少なくない。
こうした子供たちは家庭環境や日本語の壁にぶつかり、学校へ入学しないか、入学しても途中で辞めてしまうことがある。外国人は「義務教育」ではないので、学校を辞めて社会とのつながりが断ち切れるということが起きてしまうのだ。
彼らは学校へ行かなくなることで社会福祉や地域とつながりがなくなり、漂流していってしまうことが多い。児童労働に取り込まれたり、非行化してギャングとなって事件を起こしたりするケースもある。
日本が労働力を外国人に頼らざるを得えない状況の中で、こうした子供たちに光を当てるのは間違いではないだろう。
ここでは、日本の教育からこぼれ落ちた二人の南米出身の日系人の子供に光を当ててみたい。
池長ミツヨシ
池長は日本に来て20年になる。全身にタトゥーを入れ、建築の仕事をしながら、家庭を持って子供も育てている。だが、ほとんどと言っていいほど日本語をしゃべることができない。日本人の子供に例えれば、4歳前後のボキャブラリーだろう。その原因が、彼の「不就学」にあるのは明らかだ。
池長はブラジルの貧しい町で生まれ育った。父親はいろんなところに女をつくり、子供を生ませていた。池長もそうして生まれた子供の一人であり、物心ついた時には父親は離婚していなくなっていた。父親はブラジルで生活が成り立たなくなり、日系人だった母親を頼って日本へ行ってしまっていたのである。
母親の元で池長は小学5年生まで過ごすが、家は貧しく生活もギリギリだった。そのため、日本で暮らす父親のところへ預けられることになった。
日本で父親は契約社員として肉体労働をしていたが、女性をつくって遊び歩いており、池長はネグレクト状態に置かれた。池長はご飯さえ食べられない日々がつづいたが、日本語ができない上、学校にも行っていなかったので、助けを求めることさえできない。
小学6年のある日、父親に殴られたのをきっかけに、池長は家出をした。だが、彼には行先も、助けを求めるだけの語学力もなく、汚い橋の下で暮らしはじめた。12歳でホームレスになったのだ。
池長の言葉である。
「橋の下で生活したのは、寒いから。あと捕まるのが怖いから。痛いし、怖い。でも、家よりいい。(父親は自分のことを)捜してくれなかった。邪魔だったと思う」
下水の臭いが漂う橋の下で、拾ってきた段ボールを敷いてベッドにし、布団替わりに汚れたタオルに身を包んだという。
池長は公園の水を飲んだり、コンビニのゴミ箱を漁ったりして飢えをしのいだ。風邪をひいたこともあっただろうが、そんなことに気づく余裕もなかったという。
驚くことに、ホームレス生活は3年に及んだ。もし池長が日本人であれば、このようなことは起きなかったはずだ。家庭が荒んでいても、学校や親戚が気づいて捜索願を出していただろうし、地元の人々も日本人が橋の下で寝泊まりしていれば手を差し伸べたはずだ。「外国人」だからこそ、人々の無関心の下でこうしたことが起きてしまうのである。
15歳の時、池長はようやくホームレス生活に終止符を打つことができた。建設業のオーナーに声を掛けられ、働かせてもらえることになったのだ。違法な児童労働であり、日当も低かった。だが、3年も橋の下で暮らしていた池長にしてみれば、天から下りてきた蜘蛛の糸のようなものだった。彼はその会社で働き、屋根の下で生きていくことができるようになった。
池長は言う。
「あそこで仕事してなかったら、死んでた。親方、助けてくれた人」
皮肉にも、学校も地域も救ってくれなかった中で、建設業の親方だけが「児童労働」という形で池長に手を差し伸べたのである。
この親方の会社では、同じような境遇の日系ブラジル人の子供たちがたくさん働いていた。ほとんどが学校にも行けず、家庭にもいられず、町をさまよっていた子供たちだった。
彼らは生きるために無我夢中で働き、夜は夜で鬱憤を晴らすように酒を飲み、ドラッグに手を出し、日本人相手に暴力を振るった。それしかストレス解消の術がなかったのだろう。
そして彼らは自分たちのルーツである南米のギャングを真似して、全身にタトゥーを入れた。特徴的なのは、それぞれの体に市外局番のタトゥーが入れられていることだ。南米のギャングは自らが生まれ育ったストリートをギャング名にしてタトゥーにすることが多く、それを真似たのだ。
池長は言う。
「俺の地元はブラジルじゃない。ここ(可児市)。だから、この番号を入れた」
彼らは、可兒こそ自分たちの生きる場所だと思っているのだ。
アチャ
アチャが暮らす静岡県磐田市もブラジル人労働者の多い町として知られている。
磐田市には、かつて"スラム"と呼ばれていたT団地がある。リーマンショック前は住民の多くがブラジル人労働者だった。
アチャはブラジル人ではなく、日系ペルー人だ。両親が出稼ぎ目的で日本に来ていたため、ここで生まれ育ち、小学校へも入学した。だが、内気な性格がたたったのか、日本語がしゃべれるのに、言葉がうまく出ていないと判断され、まったく日本語ができない子供たちのための教室へ送られ、それが嫌で不登校になった。
当時の団地にはあちらこちらにカラースプレーの落書きがあり、外国人たちがドラッグをやっていたり、酒を飲んで暴れていたりしていた。酔って刃物をふり回すような人たちもおり、日本の暴走族さえ近づかなかったという。
アチャは不登校になったことで、そういう若者や大人たちとつるむようになった。学校へ行けば先生から「日本語が下手」と言われ、同級生からは外国人ということでいじめにあう。居場所は団地の外国人の不良たちのたまり場にしかなかったのだ。
アチャは言う。
「本当は真面目にやりたかった。でも、日本の学校がそうさせてくれなかった。あの頃は団地にはそんな人たちがあふれ返っていて、学校へ行かなければ、そういう人たちの輪に入るしかなかった。外を歩けば声を掛けられて誘われるんだから仕方ないじゃん。
今考えれば、本当にスラムみたいな団地だったと思う。俺の住んでいる棟だって、うちの上と下の部屋に住んでいた人が自殺してる。社会に溶け込めなかったんだろうね。そんなふうに死ぬくらいなら、不良とつるんでいた方がずっとかっこよかった。それ以外に選べなかったんだよ」
親からは不良の外国人と付き合うなと言われていた。ドラッグをやっている人たちと一緒にいるくらいなら家に引きこもってくれていた方がよかったのだろう。
だが、当時彼の団地の2LDKの家には、きょうだいや甥っ子など十人が暮らしており、幼子の世話も押し付けられていた。アチャはこうしたプライバシーのまったくない家に留まるつもりはなかった。
団地の環境が変わったのは、2009年のリーマンショックだった。大不況により、工場はブラジル人労働者たちに一家族につき30万円の帰国費用を支払うことを条件に退職を強いた。事実上のリストラである。これによって、団地に暮らしていた大勢の外国人たちが日本を去っていった。
アチャの両親も仕事を失い、一時帰国することを決めた。だが、アチャは日本に残ることを選んだ。
アチャは日本生まれだし、両親が暮らしていた町はペルーでも屈指の治安の悪いスラムだった。一度だけ実家に帰った時、家を出た瞬間に強盗に銃を突きつけられて殺される寸前の体験をした。友達もいない、そんな危険な国へ行くという選択肢はなかったのだ。
両親がペルーへ帰ったため、アチャは団地に一人で取り残された。何があったのか、すぐに仕送りが止まり、アチャは生活に困窮するようになる。家の電気、ガス、水道はすべて強制的に止められ、真っ暗な部屋で空腹に苦しんだ。
アチャは言う。
「金がないから、コンビニから盗んだものを食べたり、公園で水を飲んで腹を膨らましたりしてた。すげえ孤独で頭が壊れそうだった。誰も助けてくれないし、誰に助けを求めていいかわからない。
それで手を出したのがパウダー(危険ドラッグ)だった。盗んだり、奪ったりして金を手に入れれば、すぐに浜松の店に飛んで行って買った。パウダーをやったら、全身が射精する感じになって、嫌なことを全部忘れられるんだ。家に帰るまで我慢できず、くせえ公衆便所でパウダーやっておかしくなってたこともあった」
こんなアチャに手を差し伸べてくれたのが、同じ団地に暮らす不良やその親だった。食べる物がないと聞けばパンを分けてくれたり、小遣いをくれたりした。
アチャは言う。
「団地のみんなに助けてもらって、ここが俺の生きる場所だって思ったね。宝物だよ。この仲間たちと生きて生きたいと思った」
彼は今、その仲間たちとともにラップをやっている。その仲間の体にも、可児市の池長と同じく市外局番のタトゥーが刻み込まれている。彼らにとって、T団地は「異国」ではなく「地元」なのだ。
「外国人」であるがゆえに…
池長とアチャの例からわかるのは、彼らが「外国人」であることから、日本の子供ではありえないような状況に陥っていることだ。
日本人の子供が、池長のように12歳から3年間も橋の下でホームレスとして生きていくことがありえるだろうか。
あるいは、アチャのようなに、ライフラインの止まった団地の部屋に置き去りにされてしまうことがありえるだろうか。
ほとんどのことが、「外国人」であるがゆえに、子供たちが社会から見捨てられた結果として起きていることなのだ。
冒頭に述べたように、今の日本は外国人による労働力に未来を託そうとしている。ならば、外国人の子供に対してそれに見合った支援をしていく必要があるだろう。
池長やアチャは国籍こそ外国かもしれないが、体に地元の市外局番のタトゥーを掘り、そこで定住しようとている。家族も友人もみんなそこにいる。
そう考えた時、私たちは彼らを「外国の子供」ではなく、「日本に暮らす子供」として受け止め、何をすべきかを考えていく必要があるのではないだろうか。