ガンバレ、ニッポン

なんか、不安定なニッポンですね。

韓国産の偽・清酒が「露骨に日本産に成り済ました」恥知らずな代物だった模様

2016-10-27 18:20:34 | 政治、経済
ラベルがなぜ?

日本語?

韓国は水が汚染されてるのだから

それで作った清い酒?

誰が 買うの?

ちょと前に石原さとみがCMしていた「ふんわり鏡月」

買おうと思ってラベル見たら韓国産でしたね。






ソースから

京畿道(キョンギド)農業技術院(院長=キム・スンゼ)は、韓国内の消費が増えている日本酒の『サケ』の代替を目的に開発した『K3』が、25日から市場で販売されると明らかにした。

道農技院と京畿融複合産学研協力団(団長=ぺク・ムヨル)が共同開発した『K3』は、金浦(キムポ)で生産した新米で作ったアルコール度数13%の『清い酒』である。

『K3』という商標は韓国(Korea)の消費者の心を叩き(Knock)、清い酒市場に火をつける(Kindle)という意味を盛り込んでいる。この酒は他の薬剤やその他の添加物は使わずに粒麹と麹だけで発酵して、既存の薬酒(マッコリの上澄み)に比べて味と香が柔らかくてスッキリしているのが特徴である。

『K3』は加平(カピョン)の醸造会社である(株)ウリスル(我が酒)が作り、道内の日本式居酒屋などでとりあえず販売される予定で、一般の消費者も購入できるように流通網を拡大する計画である。

これに発売を記念して25日の午後5時、城南市(ソンナムシ)盆唐区(プンダング)の日本式居酒屋『オイシ』で試飲会を開くが、伝統酒に関心があれば誰でも訪問する事ができる。

キム・スンゼ院長は、「最近、酒に対する流行が低度酒から清い酒に変わっている」とし、「米の消費を拡大して酒類市場に対応するため、伝統酒を持続的に研究する」と話した。

一方、去る2000年に103トン輸入された日本酒は2013年には4367トン輸入されるなど、韓国内の消費が急増している。

韓国検察庁、朴大統領の機密漏えい問題で特捜部設置

2016-10-27 18:01:20 | 政治、経済
大統領である内は

逮捕がないらしく

退いたら逮捕状がでるらしい?

韓国の大統領は逮捕されたり自殺したり。側近に殺されたり

不幸が多いのでしょうかね?




ソースから

【AFP=時事】韓国の大検察庁は27日、朴槿恵(パク・クネ、Park Geun-Hye)大統領が機密情報を民間人の友人女性に漏らしアドバイスを受けていたとされる疑惑の拡大を受け、特別捜査本部を設置した。

 この友人女性、崔順実(チェ・スンシル、Choi Soon-Sil)氏は既に、朴大統領との友人関係を利用して国内の複合企業に対し、2つの非営利団体への多額の献金を強要したとして捜査対象になっている。

 AFPの取材に対し大検察庁報道官は、金秀南(キム・スナム、Kim Soo-Nam)検事総長が特捜本部に対し「徹底的な捜査と真相究明」を求めたと語った。特捜本部の本部長はソウル中央地検長が務める。

 韓国メディアによると、崔氏は朴大統領の演説原稿を修正していたほか、政府要職人事や北朝鮮政策にも影響力を及ぼしていた可能性があるとされる。このスキャンダルは朴大統領に非常に大きなダメージを与えており、支持率は過去最低まで急落している。【翻訳編集】 AFPBB News

中国陝西省の住宅地で大爆発、160人超死傷 爆発物を違法保管

2016-10-27 17:57:32 | 政治、経済
真実を報道しない中国ですから

160人どころではないのでは?

それにしても

事故になると、負傷者が多いのはなぜですかね?




ソースから

【AFP=時事】中国内陸部・陝西(Shaanxi)省府谷(Fugu)県の住宅地で大規模な爆発が起き、25日までに死者は14人、負傷者も147人に達した。これまでに3人が身柄を拘束され、違法に爆発物を保管していたことを認めた。中国の国営メディアが報じた。



 爆発があったのは24日。新華社(Xinhua)通信によると、プレハブの建物5棟が大破したほか、58棟が崩壊または損壊した。

 中国中央テレビ局(CCTV)は25日、初動捜査の結果、爆発は違法に保管されていた爆発物によって引き起こされたことが判明したと報道。容疑者3人が身柄を拘束されたと伝えた。3人は取り調べに対し、違法に爆発物を製造し保管していたことを認めたという。

 中国共産党は24日から北京(Beijing)で第18期中央委員会第6回全体会議(6中全会)を開催しており、国内では厳戒態勢が敷かれている。当局は25日から今回の爆発に関するネット上の書き込みを検閲している。

 中国では安全管理に関する規則が無視されることが多く、産業事故が多発している。

 東北部・天津(Tianjin)市の港では昨年、化学薬品倉庫で大規模な爆発が発生。巨大な火の玉が上空に舞い上がり、数キロ先の建物まで破壊され、少なくとも165人が死亡している。【翻訳編集】 AFPBB News

ブルネイを変えた日本人

2016-10-27 06:47:19 | 政治、経済
貧しい国が

世界有数の裕福な国になったのは

一人の日本人がいた。

天然ガスの9割は日本に輸出とか。

身分制度の廃止、ハングルの奨励、人口を倍に増加、近代的建築を造ったりした

韓国とはずいぶん違いますね。




ソースから

東南アジア・ボルネオ島の北部に位置する、ブルネイ・ダルサラーム国・通称ブルネイ。 三重県とほぼ同じ面積ながら、石油や天然ガスなど、地下資源が豊富で、これらの輸出により経済は安定。 なんと、国民の税金はほぼゼロ。 医療費も国が負担するなど、世界有数の裕福な国として知られている。
 だが…かつては、世界で最も貧しい国の一つだった。 この進化の陰には、国の経済だけでなく、人々の心まで大きく変えた一人の日本人の存在があった。
 その日本人がブルネイにやってきたのは、今から74年前のこと。 1939年、第二次世界大戦が勃発。 日本は1941年から東南アジアのアメリカ・イギリス・オランダが植民地とする島々を次々に占領。 翌年には、イギリスが支配していたブルネイに侵攻。 兵力が少なかったイギリスはすぐに撤退し、日本軍が手中に収めた。
 そしてこの国を「日本国ブルネイ県」と制定、日本の統治下においたのだ。 そのブルネイ県知事に任命されたのが…木村強(当時41歳)。 宮城県出身の木村は、県庁で商工課長などの要職を歴任。 そして1942年、旧日本陸海軍が占領地の行政を行う司政官として戦地に向かう事へ。 その最初の仕事がブルネイの県知事だったのだ。
 木村はブルネイに到着後、まず始めに当時の国王アハマドと面会。 「日本国ブルネイ県」となった後も、日本は国王の地位は変えず、その権威はそのまま守られていた。 そして木村は国王に対して、敬意を持って接することを忘れなかった。 木村は国王にブルネイに詳しい人物を1人付けてもらえるようにお願いした。
 木村にとってブルネイは、まだ未知の国。 そのため、さまざまな知識があるブルネイ人の秘書が必要だった。 国王は木村の要求に応えるため、一人のブルネイ青年を呼び出した。 オマル・アリ・サイフディン。 まだ26歳の青年だった。
 国を占領した日本の司政官に対して、国王たちの対応は従順だった。 だが…彼らは日本人を信用しているわけではなかった。 それまで、長らくイギリスの保護統治下にあったブルネイ。 だが、イギリス人が懸命になったのは油田開発のみ。 しかもその利益はブルネイには落ちず、国民の多くは、貧しい生活を送っていた。
 そして、当時の日本もまた、イギリス支配からの解放を謳ってはいたが、真の目的は石油。 統治のねらいが、ブルネイ近海で発見された油田の確保であることは、誰の目から見ても明らかだった。
 秘書となったブルネイ青年オマルも、日本軍、そして木村の目的がそこにあると思っていた。 だが…木村が視察したいと言ったのは、なぜか一般的なブルネイ人が暮らす貧しい村だった。
 当時のブルネイの村は、まだほとんどがジャングルに覆われ、道路も通っていない状況だった。 ブルネイの国土の大半を占める熱帯雨林には、ゴムの木が豊かに自生していたものの、現地の人々が細々と採取しているだけだった。 天然ゴムが豊かである事に注目した木村は、軍の資金でゴムを製造する工場を設立し、多くのブルネイ人を正当な賃金で雇用。
 無論、木村の中にも石油の確保という、日本政府の狙いを遂行する意識はあった。 しかしそれ以外にも、天然ゴムが豊かであることに注目した木村は、ゴム工場で得た収益を日本軍の利益とせず、水道、通信などのインフラ整備を次々に進めていったのだ。 軍の為ではなく、現地住民の生活を向上させるために。
 とはいえ、工場設立の費用などは軍の資金。 石油以外に資金を使うことは日本政府の意向に反するとして、左遷や投獄の可能性もある。 それでも木村は信念を曲げなかった。
 さらに…木村は大きな畑を作ることにした。 自給自足の生活に慣れ、『自分と家族が食べていければ、それでいい』と考えていた人々に… お互いに協力し、大規模な農場で大量生産を行うことで、みんなで豊かになろう、そう呼びかけたのだ。
 木村はできるだけ多くの村々を周った。 ブルネイ人同士の繋がりを育むことで、ブルネイという国を豊かにすることが大切だと考えていたのだ。
 しかし、そんなある日のことだった。 木村と帯同していた杉野たちは、木村がブルネイ人を奴隷として扱わないことに不満に思い、木村にそれをぶつけた。 事実、当時、日本軍は資源採掘や食料増産のため、占領した東南アジアの国々で、過酷な労働を現地の人々に強いていた。
 だが木村はそんな杉野たちにこう言った。
「我々日本人の言動や行いが後世に笑われるようなことがあっては、決してならない。それを我々は肝に命じるべきなんだ。大事なのは今じゃない、未来だ。目先の利益を欲しがり搾取などすれば、ブルネイの人々との信頼関係は二度と築けない」
 この話が日本政府の耳に入れば、自分の身に何が起こるかわからない。 それでも、木村はやり方を変えようとはしなかった。
 オマルはいつしか、ブルネイ人の生活改善を第一に考えてくれる木村に対し、最大限の信頼を寄せていった。 そして木村はしだいに、ブルネイの多くの人々に尊敬される存在となっていった。
 さらに木村は、驚くべき行動に出た。 木村はオマルにイバン族の居住区に連れて行ってくれるように頼んだ。 ブルネイは、王家を含むマレー系の他に、様々な部族が暮らす多民族国家なのだが… 中でも、マレー人たちに最も敬遠されている部族があった。 それがイバン族。
 イバン族には、昔から“首狩り”の風習があり、マレー人と殺し合いをしてきた歴史のある、野蛮な部族として知られていた。 それでも、木村はブルネイをさらに発展させるには、国内で争っていてはいけないと考え、イバン族の協力も仰ぎたいと考えていた。
 だが…イバン族の居留地に向かっている途中のことだった。 イバン族に取り囲まれ、追い返されてしまったのだ。 実は戦時中、日本軍の中にイバン族の土地へ侵略を試みた部隊があった。 イバン族は日本兵の首を斬りつけ侵略を阻止。 以来、日本人に対し強い嫌悪感を抱いていたのだ。
 そのため、何度訪れてもすぐに追い出された。 だが、それでも…木村とオマルは、イバン族の元へ通い続けた。
 その一方で、木村は国王に掛け合い、ブルネイにおけるイバン族の地位向上を訴えた。 そして、イバン族の村でも自らインフラ整備を始めた。
 そんなある日のこと。 イバン族のみんなが、自分たちにも作業を手伝わせて欲しいと申し出てきたのだ! 木村の想いは、いつの間にかイバン族にも伝わっていた。 あれほど、日本人を嫌っていたイバン族が木村に信頼を寄せるようになっていったのだ!
 こうしてイバン族とも絆を育んでいった木村。 さらに…木村が言うならと、イバン族とブルネイ王家が歩み寄ったため、マレー人と他の部族との関係も改善。 小さな国土で多民族がいがみあっていたブルネイは、一つにまとまりつつあった。
 だが、そんな時間は長くは続かなかった。 木村がブルネイ県知事に就任しておよそ1年。 軍の命令により、マレーシアのサンダカンへの異動が決まり、ブルネイを離れることとなった。
 滞在期間わずか1年足らず。 だがブルネイにとっては、それ以前の生活が一変し、国の基礎が出来上がった、奇跡の1年となった!
 別れの日、木村は唯一残した手記に、こう綴った。
『ブルネイには僅か一年位しかいなかったが、現地人の幹部が男泣きに泣いているのを見て、私も泣いた。そしていよいよ出発の日に、約1時間半ほど、政府の幹部が見送って別れを惜んでくれているのを目のあたりに見て、我れながらこれほど信頼してくれたのかと思って、嬉しい気持ち、有難い感情、また、淋しい感情を錯綜して自分も泣いたほどであった。私は過去1年間行なった事が、多少とも現地の為になったのかと内心満足し、ほっとした感じになった』
 そして木村がブルネイを去ってから、22年の時が流れた。 終戦後、地元・宮城へと戻った木村は、検事として活躍しつつ、家族との時間も大切にする毎日を過ごしていた。 しかし…晩年、木村はよくブルネイでの1年を思い出していたという。
 1963年まで、日本では業務や留学以外の海外への渡航が規制されており、ブルネイに行くことはできなかった。 国王宛てに手紙を書く事も考えた。 しかし、マレー語が不得意なうえ、日本は敗戦国。 複雑な感情が木村の筆を留まらせた。
 しかし、そんなある日、まさに夢のような出来事が起きた。 それは、いつものように仕事をこなしている時のことだった。 木村のもとに一通の手紙が届いた。 差出人は上野辰郎。 当時ブルネイで、商社の出張所員を務めており、終戦後も木村と親しくしていた人物だった。
 そこには驚きの内容が書かれていた。 上野の知人が、ブルネイ国王と面会した際、国王からこんな言葉が出たという…
「戦時中に県知事をしてくれた木村という男に、もう一度会ってみたいのですが」
 実は、ブルネイ国王はどうしても木村に会いたいと思い、自ら日本を訪れ、探し回ったこともあるというのだ! しかし居場所を掴むことができず、断腸の思いでブルネイに帰国したという。 そして手紙の最後には…『私たちと一緒にもう一度ブルネイに行きませんか』と書かれていた。
 そして木村は、ブルネイへと再び旅立った。 その時の心境をこう綴っている。 『二十二年前の恋人に会うような種々の感情、空想を胸に抱き心臓の鼓動を抑え機上の人となった』
 実に20年以上の時を経て、木村はブルネイの地に降り立った。 そして…いよいよ現国王が待つ王宮へ。 そこにいたのは…オマルだった。 実は、木村の秘書を務めていたオマルは、国王の弟だったのだ。 オマルは兄の遺志を継ぎ、ブルネイの新国王となっていたのだ!
 その後、2人は当時の思い出話に花を咲かせた。 そして、別れの時間が近付くと、オマルは、もう一度ブルネイで働かないかと持ちかけた。 思ってもみない要請だったが、木村はそれを断った。 なぜなら…ブルネイは木村がいた時よりもはるかに立派に成長していた。別れの時…約束した通り、自分たちの手で。
 木村さんには、亡くなるまで大事にしていたものがあった。 それは、別れ際、オマル国王から渡されたプレゼント。 その現物が今も大切に保管されている。
 高級なものではない。 あえて、オマル国王はブルネイの心を伝える民芸品を贈ったのだという。
 あれからおよそ70年。 今現在、ブルネイの人々は日本の事をどう見ているのだろうか? 「日本人は素晴らしい。一生懸命で多くの事を学ぶ事ができるよ」 「日本は発展していてとても好きです」
 今より未来…今から70年以上前に木村が願ったとおり、日本とブルネイは深い信頼関係で結ばれている。 現在も両国は良好な関係が続いており、ブルネイの天然ガスは輸出総量の約9割が日本へ向けたものだ。
 また東日本大震災の際には、オマル国王の息子である現ブルネイ国王から100万ドルの義援金が送られた他、民間からもおよそ2400万円の義援金や 寄せ書き等のメッセージが送られた。
 木村が、今なおブルネイで尊敬される理由。 それは、彼が日本人の心である“和”の精神を伝えたから。 日本とブルネイの海を越えた友情は、今後も受け継がれていくだろう…末永く。

在日韓国人留学生 22人中20人が「私は韓国人ではない」

2016-10-26 06:27:34 | 政治、経済
残念だけど

韓国人です。

頑張ってください。



ソースから

日本で生まれ育った在日韓国人の中には、高校や大学で母国に留学し、韓国語や韓国文化を学ぶ人がいる。彼らはその留学を通して、「私は韓国人ではない」との意識を強めるという。そう思わしめる経験とは何か。在日韓国人ジャーナリストのコナー・カン氏がリポートする。
 * * *
「母国修学が在日コリアンのエスニックアイデンティティに与える影響に関する研究」そう題された修士論文が韓国で話題になった。筆者はソウル大学大学院で社会学を専攻したユン・ダイン氏(27歳)。
 海外に住む韓国人に向けた広報活動などを行う「在外同胞財団」(韓国外交部傘下)が主催した学位論文公募展(2015年)で、最優秀賞を獲得した。
 
 ユン氏は論文執筆のため、韓国に6か月以上滞在する在日韓国人留学生22人にインタビュー。その結果、22人中20人が「私は韓国人ではない」「私は在日だ」という意識を留学中に強化していることがわかった。つまり、せっかく母国で学んでいるのに「韓国人としてのアイデンティティ」が生まれないというのである。
 
 韓国政府は在日韓国人らを対象に『母国修学制度』を長年実施してきた。「民団(*1)」が幹部育成のため本国に要請し、制度化されたのは1962年。「国費奨学生」として韓国の大学への進学が認められた。その後、高校生向けの短期留学が加わるなど、変遷を経て現在に至っている(*2)。
【(*1)在日本大韓民国民団の略称】
【(*2)1980年代には日本以外の在外韓国人にも門戸が開かれた。現在は自費留学が基本で、成績優秀者などに奨学金を支給している】 
 留学制度の運用を担う韓国・国立公州大学校発行の「募集案内」によると、韓国語や韓国文化、韓国史を学ぶ共通課程(週15時間)と専門課程(同)が設けられており、居住国での修学年数や希望に応じて志願できる。座学のほか、韓国各地を巡る「現地学習体験」や韓国の大学生との交流、ホームステイ、専門課程ごとの放課後学習サークル(語学、大学入試・就職準備など)が用意されている。
 
 ユン氏がインタビューしたのは同制度を利用した学生2名、その他の留学手段で韓国に滞在している在日の学生20名だった。ユン氏が語る。

「在日の歴史を知る人が優しくしてくれたとの証言もありましたが、正直、『韓国の人々が在日コリアンについてあまり知らない』という話が多かった。彼らはそのことに失望や衝撃を感じ、時に苛立ちを表していました」
 学生が出会った多くの人は「在日は韓国人ではない」という認識を直接・間接に表現したという。中には、差別的な表現さえあった。
「多くはありませんが、『サークルの部屋でチョッパリ(*3)という言葉を使いながら自分の噂話をしていた』『パンチョッパリ(*3)と言われた』などの証言がありました。本名と通名(日本名)を持っている子が、韓国人から通名しか呼んでもらえなかったというケースもありました」(ユン氏)  同様の体験はこれまで多くの著名人も明かしている。
【(*3)「チョッパリ」は豚足を意味し、「(豚の足のように見える)足袋を履く日本人」を意味する蔑称。「パン(半)チョッパリ」は在日韓国・朝鮮人への蔑称】
 劇作家・つかこうへい(故人)は、自著『娘に語る祖国』で、初めて韓国を訪れた際の経験をこう記す。 〈税関で、(中略)「おまえは韓国人のくせに、なんで祖国の言葉がしゃべれないんだ」と、パスポートを叩きつけられました〉
 サッカー元日本代表の李忠成は日本に帰化する前、U-19韓国代表合宿に参加した際、「なんで在日の奴が来たんだ」「パンチョッパリ」などの言葉を浴びせられた。李はテレビのインタビューでこう答えている。
「日本の人よりも韓国の人のほうが僕の味方をしてくれると思って韓国に行くわけですね。なのにそれとは真逆のことを言われ(中略)、韓国代表に落ちたということだけではなく、自分の世界観がすべて変わってしまった出来事の一つになりました」