ぽんぽんとラインで就職の話をした。
ぽんぽんはちょっとやってみたいことがあるらしいのだが、
「それにはちょっと経験が足りないから、その前に〇〇をやってみようと思う」
と言った。
「んー、そうだね」
と答えたが、なんとなくそれはやりたいことから遠ざかるための回り道だろうなと思った。
やりたいことはいろいろある気がするが、自分には何もできない気がする。
何かをやっている自分がイメージできない。
できない自分に気付きたくないから、のらりくらりと回り道をするのか。
できてしまったら怖いのか。
そういうあたりで自分がぐるぐるしているので、
「あかん。ぽんぽんに伝染してる」
と思った。
こういうの(自分は「できない」という自己イメージ)は親子間で伝染る。
確実に。
ぽんぽんにはその旨伝え、
「私は私で努力しますが、あなたも感染しないように自衛防御なさい」
と言った。
「……はい」
その後、部屋を片付けながらYoutubeを聴いていたら、誰かが、
「何かになりたかったら、先に『なる』と決めればいいんですよ」
と言っていて、そういう話はよく知ってるし、自分も人にそう言うし、なんならそれで何かになれる時となれない時の違いなんかもある程度は説明できるけど、なぜか私は、何も「なる」と決めていないな、なんなら全部「なれない」と決めてるな、と思った。ダメじゃん。
こういうふうになりたい、と思ったそばから、
「どうやって?てか、それほんとになりたい?なる必要ある?なる意味ある?」
と考え始め、なれない理由を探し始める。
何かを思いつくと、まずエゴ的思考が立ち上がり、私を卑小な自我に閉じ込めたまま、創造の力に触れさせもしない。
なんなんだこれは。
いや、だからエゴだよ。
「どうやって?」
って考えたってわかるわけはない。
考えたりしないで、その「なりたい」を深く体に響かせなければならない。
響かなければ、それは別に「なりたい」ことではないので、さっさと諦めればいい。
なんだか中途半端にそんなことを思いながら、母のショートステイにかこつけて、一泊二日の小旅行に出かけた。
一度行ってみたかった深大寺で念願の深大寺そばを食べ、植物園で咲き始めのバラを見(なんか昔からバラ園って好きなんだよな)、日帰り温泉でたっぷりお湯に浸かって、ビジネスホテルに一泊、翌日は少し足を伸ばして高幡不動に行って人様の護摩祈祷に便乗して受け、新緑を満喫して帰ってきたのだが、ルーティンの日常を離れてみると、私は私というキャラを皮膜のようにかぶり、そのペラッペラの役作りで私になってるんだな、という気がしてきた。
なんかこう、ペラいのだ。
このペラさに気づいたのは、収穫かもしれないが、そうなると自分の言動の全てが嘘くさい。
まあ、しばらくはこの嘘くささを味わってみようかな。
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