モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

ウメの花① 白梅『玉牡丹』の花

2009-02-04 08:50:43 | その他のハーブ

『東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ』

この詩は、菅原道真が大宰府に左遷される901年1月25日に、道真の愛した庭の梅の花に別れを惜しんで詠んだ詩で、彼を祭る天満宮にはウメの木が植えられ、受験生の神様ともなっている。丁度、1月末からの受験シーズンにはウメが咲き始め、受験生とその家族の神頼みの卿を高めている。
しかし、世界でも有名なイベント「JYUKEN」は、ホテルを取れないということで海外からの観光客を泣かせるだけでなく、親をも泣かせている。

ウメの原産地は中国長江流域だが自生地はよくわからないという。
私たちになじみのイチョウ・キクも中国原産だが同じように自生地がよくわからない。このへんのおおらかさとは別に、生活への利用に関しては進んでいたようであり、食用・薬用として古くから活用されていて、塩梅(あんばい)はいまでも使われる言葉だが、調味料をさしており2200年前の中国の生活の場での活用の名残りでもある。

(写真)白梅八重咲き大輪の玉牡丹(野田市水公園にて)


日本には奈良時代の藤原京(694年持統天皇の時に遷都)の頃白梅が入ってきたようであり、中国文化とともに朝廷に入ってきた。そして貴族の庭に広がったようだ。
万葉の歌人柿本人麻呂(660-720年頃)にはウメの詩がないという。万葉集には119首ものウメの詩があるが、歌聖とも言われる人麻呂にはウメの詩がない。このことから8世紀半ば頃に渡来したと推定されているが、ウメとともに伝わった中国の文化で重要なものは『花を愛でる』という観賞価値の伝来である。

菅原道真の頃には紅梅も輸入されたようで、美しく香りの豊かな花として貴族の庭に普及した。鎌倉時代にはその清楚な美しさが武士にも愛され神社・仏閣などの庭に広がり、また梅干という食品が発明され栽培植物としての大衆化の基礎が整った。

江戸時代になると藩の産業興しと結びつきウメの栽培が盛んになり梅干・紅染めの媒染剤としての梅酢などが特産品として生産され、また園芸ブームが起こり数多くの品種がつくられた。
さらには美術工芸品とも融合し、蒔絵・屏風絵・意匠の文様・家紋など中国輸入文化ではない日本独自の文化が誕生した。

美術では、江戸時代の画家工芸家 尾形光琳(1658-1716)の『紅白梅図屏風』 (MOA美術館蔵)などがその代表ともいえるが、この作品は、MOA美術館がある熱海のウメ祭り期間に展示される。

国宝だからというわけではないが、日本人が大好きなウメをとらえた名品でもありこれは是非見ておきたい作品だ。あまりの素晴らしさに何時間でもこの絵の前でたたずんで見たほどのものだった。

ウメ(Japanese apricot)
・バラ科サクラ属スモモ亜属の落葉高木。スモモ亜属には他にスモモ・アンズがはいる。
・学名は、Prunus mume Sieb.et Zucc.で、シーボルトが命名。英名は、Japanese apricot,Japanese flowering apricot。
・古語では、ウメのことをムメと呼んだ。
・原産地は中国長江流域で、日本には8世紀半ばに渡来。
・開花期は2月。花が咲きその後に葉がつく。

命名者はシーボルト(Siebold, Philipp Franz (Balthasar) von、1796-1866)とその盟友ズッカリーニ(Zuccarini, Joseph Gerhard 1797-1848)。


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