天津ドーナツ

みんなで力を合わせて、天津の日本語教育を楽しく、元気にしましょう。ご意見・ご要望は左下の「メッセージ」からどうぞ。

「人は、なぜ対話をするのか」…元NHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2011-11-20 06:44:08 | 日本語学習法
2011年11月20日 (日)
*  
 「人は、どうして会話をするんでしょうね」
 
 それは、ある外資系の大手企業の経営者研修の三日目だった。
 昼食を共にしながら、歓談しているとき、突然受講者の一人に聞かれた。
 
 聞いたのは、新しく役員になろうとする、50台後半のエリート社員だ。改めて、顔をみると、いかにも疲れているようにも見える。
 
 さて、どう返事をしたものか、言葉を選ぶのに、少し迷った。質問の真意を測りかねたのだ。
 ・・・研修が退屈になったのか?・・・
 ・・・それとも哲学問答を仕掛けてきたのか?・・・
 会場には、会長初め社長、専務、理事の面々がずらりと並んでいる。
 みなさん、箸を止めて、こっちを見ている。
 
 私は、お茶を飲み干し、ゆっくり言った。
 「そりゃあ 人間だからですよ」
 「人間なら 会話をしなけりゃならんのですか」
  
 私は立ち上がって、ホワイトボードに文字を書いた。
  ・・・人間・・・
 「人という字は一人で足を踏ん張っている。だが人間となるには、人と人の間が大切になるのですね」
 「はあ?」
 「人と人の間に詰まっているモノは、一に空気だ」
 「ま、そうですね。それがないと生きていけない・・・」
 「でも、呼吸が人間の全てではない」
 ・・・
 彼は、戸惑いながら言った。
 「息をしているだけでは、人間とは言えないかも・・・」
 「そう、人と人の間には、空気の他に“ことば”が埋まっているんですな」
 彼は首を傾げた。
 「でも、世の中には聾者もあれば、声を失った人もいますね・・・」
 
 私は、彼の真意を、なんとなく察することが出来た。
 ・・・彼は真剣なのだ。真面目に疑問に思っている・・・
 ・・・重役になろうとする位の男だから・・・・
 ・・・それに、こうした外資系の会社の研修は、昇進のための資格試験でもある・・・
 私も真面目に答えてやろう、そう思った。
 「そう、聾であれば声は聞こえない。唖であれば声で伝えられない。だが、どんな人であっても、何か他の手段で自分の思いを人に伝え、人の思いを受け取ろうとする」
 「そうですね」
 「人にとって、“ことば”とはそのようなものなのですよ。対話こそが人間の命なのだね。例えそれが、どのような手段であっても、人間には“ことば”が必要なのだ」
 「“ことば”の定義が広くなりますね・・・」
 「そうですよ。文字に表せる“ことば”、肉声で表現出来る“ことば”もあるけれど、それだけではない。言語ならざる“ことば”や、声なき“ことば”・・・全てが“ことば”なんだね」  
 「表情とか、そういうことですか」
 「文字の“ことば”で言えば、行間で語る“ことば”があるし、肉声の対話なら、言葉と一緒にでるイントネーションや声の強弱・・・それに表情や態度といった“ことば”もある。むしろ、そうした、言語ではない“ことば”のほうが、相手により多くの思いを伝えてくれるものなんだ」
 彼は黙った。
 「・・・・」
 「自然という森羅万象も“ことば”を発している。人間もそれに向き合い対話する。自然が発している“ことば”は同じでも、科学者は科学の“ことば”として受け止めるだろうし、詩人は心の響きとして受けるだろう。我らは、万物から知識を教えられる、空気や水の流れ、植物や動物からも・・・無論、隣人からも」
 「それを、どう解釈というか感じるかは、受け手にあるということですか」 
 「その通りですよ。全て、知識等というモノは他者からの贈り物。それを己の智慧とすることが出来るかどうか。それは、受け取る人間の器量次第と言うことでしょう」
 ・・・
 一週間後、重役に昇進したと、手紙がきた。