「50音図の落とし穴」も、細かく書いてゆけばキリがない。だから、この「ん」で打ち止めにするが、どうしても書いておかなければならないのは、「ン」のポジションだ。
アイウエオ・・・・と唱えていって、最後にとってつけたように「ン」と、ぽつんと一字だけ書かれている・・・「ン」は「50音図の落とし穴」ならぬ、「落とし物」なのか、「はぐれモノ」なのか、何れにしても「縦横・5×10の音表」の、どこにも所属する場所がないらしい。
イロハだって同じ事、・・・アサキユメミジエヒモセズ・・・そこでイロハ唄は終わっているのだけれど、キャラメルのオマケよろしく、別扱いで「ン」と叫んでおわる・・・とすると、イロハ唄にガムかなんかで、無理矢理つけた尻尾かもしれぬ。
「50音のはぐれもの」にしても「イロハの尻尾」にしても、日本語を発音するには“無くてはならぬ”音だからこそ、最後に叫ぶことになるのだと思う。
第一この音は、母音なのか、子音の扱いなのか、それすら定義されていない。定義されぬというよりも、どう位置づけていいのかが分からぬ。母音のように音は韻となって続けることが出来るのだが、母音としては扱われない。幸田露伴が「幻の音」と言ったとか・・・
多くの学者や文筆家が、この音について首をひねり、素性を探るのだが、各人各様、定まった見解には至らない。
カードゲームでいえば「鬼・Joker」なのだろうかね。
だが、実際にこの「ン」がなくなると、日本語の発音はどうなるだろう。
第一、「ニホンジン」という発音が成立しなくなる。テンペンチイもいけないし、アンウンすら漂わない。カンノンさまもいなければ、カンカンノウマサンも踊れないし、ハンペンもニンジンも買えなくなる。コンバンワとアイサツすることだってできないし、ションベンもウンコすらもだめなのだ。
誰だって「ン」の音が、言語にとって「欠くべからざる音」であることに反対はしないだろう。
例えば、井上ひさしさんは「ンの音を最初に出したのが、北京原人かジャワ原人か、どこの誰かは知らないが、なぜ彼は呼気を口から出さなかったのか。なぜ彼は口腔内の器官全てを閉鎖して、鼻の方へ呼気をねじ曲げてしまったのか」と慨嘆する。
一方で谷川俊太郎さんは「五十音のおしまいに、軽業師のようにぶら下がっている「ン」が大好きだ・・・「ン」には動詞とみまがうばかりの動勢がある」と面白がっている。
こうした、多くの「ン」論については、樋口覚氏の“「の」の音言論”(五柳書院)に、詳しく書かれている。興味のあるかたは、この本を読まれることをお勧めする。因みに私も、この本によって、啓発されたひとりだ。
ところで、この「ン」についての多様な見解の中で、注目すべき大論争があったのはご存じだろうか。上田秋成と本居宣長の「呵刈葭(カガイカ)論争」である。
これについては、なんとしても述べなくてはなるまいが、少し長くなるので来月に廻すことにする。
その上で、私見を述べたい。
・・・・なお、今年からは、8の付く日、即ち 8日、18日、28日のあたりで、記事を新しくして行きますので、よろしくお付き合いを願います・・・・・本日81才を迎えた ファンタ爺より
アイウエオ・・・・と唱えていって、最後にとってつけたように「ン」と、ぽつんと一字だけ書かれている・・・「ン」は「50音図の落とし穴」ならぬ、「落とし物」なのか、「はぐれモノ」なのか、何れにしても「縦横・5×10の音表」の、どこにも所属する場所がないらしい。
イロハだって同じ事、・・・アサキユメミジエヒモセズ・・・そこでイロハ唄は終わっているのだけれど、キャラメルのオマケよろしく、別扱いで「ン」と叫んでおわる・・・とすると、イロハ唄にガムかなんかで、無理矢理つけた尻尾かもしれぬ。
「50音のはぐれもの」にしても「イロハの尻尾」にしても、日本語を発音するには“無くてはならぬ”音だからこそ、最後に叫ぶことになるのだと思う。
第一この音は、母音なのか、子音の扱いなのか、それすら定義されていない。定義されぬというよりも、どう位置づけていいのかが分からぬ。母音のように音は韻となって続けることが出来るのだが、母音としては扱われない。幸田露伴が「幻の音」と言ったとか・・・
多くの学者や文筆家が、この音について首をひねり、素性を探るのだが、各人各様、定まった見解には至らない。
カードゲームでいえば「鬼・Joker」なのだろうかね。
だが、実際にこの「ン」がなくなると、日本語の発音はどうなるだろう。
第一、「ニホンジン」という発音が成立しなくなる。テンペンチイもいけないし、アンウンすら漂わない。カンノンさまもいなければ、カンカンノウマサンも踊れないし、ハンペンもニンジンも買えなくなる。コンバンワとアイサツすることだってできないし、ションベンもウンコすらもだめなのだ。
誰だって「ン」の音が、言語にとって「欠くべからざる音」であることに反対はしないだろう。
例えば、井上ひさしさんは「ンの音を最初に出したのが、北京原人かジャワ原人か、どこの誰かは知らないが、なぜ彼は呼気を口から出さなかったのか。なぜ彼は口腔内の器官全てを閉鎖して、鼻の方へ呼気をねじ曲げてしまったのか」と慨嘆する。
一方で谷川俊太郎さんは「五十音のおしまいに、軽業師のようにぶら下がっている「ン」が大好きだ・・・「ン」には動詞とみまがうばかりの動勢がある」と面白がっている。
こうした、多くの「ン」論については、樋口覚氏の“「の」の音言論”(五柳書院)に、詳しく書かれている。興味のあるかたは、この本を読まれることをお勧めする。因みに私も、この本によって、啓発されたひとりだ。
ところで、この「ン」についての多様な見解の中で、注目すべき大論争があったのはご存じだろうか。上田秋成と本居宣長の「呵刈葭(カガイカ)論争」である。
これについては、なんとしても述べなくてはなるまいが、少し長くなるので来月に廻すことにする。
その上で、私見を述べたい。
・・・・なお、今年からは、8の付く日、即ち 8日、18日、28日のあたりで、記事を新しくして行きますので、よろしくお付き合いを願います・・・・・本日81才を迎えた ファンタ爺より