散歩のついでに・・・

犬も歩けば棒にあたる。デジカメを常に持ち歩き、気ままに撮った写真を中心に思い思いに綴っています。

旧東海道 戸塚宿-藤沢宿

2007-01-28 22:17:42 | 旧東海道
前回は品濃一里塚から江戸方面(保土ヶ谷宿)でしたが、今日は品濃一里塚から藤沢宿までの輪行。
JR横須賀線東戸塚駅から自転車で出発。
最初の坂道で早くも自転車を降りのんびりとスタート地点の品濃一里塚を目指します。
一里塚で右の写真を撮影してスタート。
道幅は一車線ほどの住宅街を走行。

高台なので所々から見える眼下の街並を見ながら少し行くと分かれ道があります。右に下るか左にそのまま進むか悩みましたが、民家の生け垣の間に案内表示がありましたので右の道に進み、下っていくと左側に陸橋の入り口らしき階段が見えたので自転車を持って数段降りると陸橋の手前に案内板がありました。
環状2号線を歩道橋で渡るのは不思議な気がしましたが、道路事情というものと思い渡って階段を降りるとまた分かれ道です。片方は環状2号に沿って行く道なので住宅街の道が旧東海道と判断して進む事にしました。
暫く住宅街を走行して国道1号線に合流。ここから暫くは工場や店舗が並ぶ事になり次の三叉路までは特にないのですが、途中のヤマザキ製パン工場を通過したときにおいしそうな香りがした事をお伝えいたします。
三叉路手前道路左手にお屋敷が見えこんもりとした木が神奈川県指定天然記念物『益田家のモチノキ』です。
通常3~8メートルの常緑広葉樹ですが、こちらの木は18メートル以上の高さに成長しており、『相模モチ』の愛称で郷土の人達から愛されなじまれてきたモチノキは希有な大木となり、旧東海道に面して来たという歴史的背景から神奈川県指定天然記念物に指定されたそうです。

三叉路を左手の道旧東海道を進み、江戸見附前信号の手前、進行方向右手のファミリーレストランの道路に面した所に江戸見附跡の碑が立っています。
ここが戸塚宿の入口となります。
人通りが多く、店内で食事をしている人が気になりさっさと写真を撮影して次のポイントに出発。

再び道路左手に渡り進むと吉田大橋の手前に戸塚一里塚跡の標柱が立っています。右側を走っていると見落としていたとおもわれるほど目立たない標柱でした。
吉田大橋です。
左の写真は東海道五十三次に描かれた当時の画ですが、全くと言っていい程当時の面影はなくなっています。

JR戸塚駅前の踏切を渡り右側を走行していると徳川家康の愛妾於万の方ゆかりの静源院長林寺があります。さらに進むと当時の面影はなく普通の民家なのですが、明治天皇行在所阯の石碑が建つ澤邊本陣跡があります。
富塚八幡宮。
祭 神
誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)=開運厄除けの神様
富属彦命(とつぎひこのみこと)      =戸塚鎮護の神様
 (古墳時代の戸塚の豪族で神社後方の古墳に鎮められている)
平安時代、奥州「前九年の役」平定のために、源頼義、義家親子が奥州に下る途中、当地に露営した折り、夢に交神天皇及び富属彦命の神託を蒙り、其の加護により戦功を立てることが出来たのに感謝して、延文四年(西暦1072年)社殿を遺り、両祭神を勧請しました。
 山頂の古墳は富属彦命の墳堂と伝えられ、これを富塚と称し、戸塚の地名発生となったと伝承されています。

富塚八幡宮を過ぎると長い大坂という上り坂になります。自転車で出掛けるくせに根性と体力がない私は自転車を降りて押して登ります。
登り始めの道路左手にあるファミリーレストラン駐車場入口に戸塚宿上方見附跡があります。
戸塚宿の江戸方と上方の見附跡に今はファミリーレストランに立っているのは偶然なのでしょうか?
宿場に入る前に腹ごしらえなんでしょうか?

坂道を上って行くと道路右側に庚申塚があり、坂を登り切ると国道1号線に再び合流します。
国道1号線上下線の間に松並木がありますが、歩道側にはないため松並木の日陰の下を歩くといった事はできません。(冬なので今回は問題なし)
国道1号線に合流して左手のマンションが建ち並んでいるのを見ながら進んで行くと吹上の交差点手前のマンションの横に歌舞伎仮名手本忠臣蔵のお軽勘平戸塚山中道行の場の碑があります。
ここから4-500メートル行ったところ。

土手の上に原宿一里塚跡の碑(看板)があります。
品濃一里塚 - 戸塚一里塚 - 原宿一里塚と進んで来たわけでここまでで2里(8キロ)走行した事になり、一休み。
昔と違い休憩する日陰も何もないただの歩道です。

先の信号を渡って少し戻った所に浅間神社参道がありますが今回は入口を撮影しただけで次へ進みます。
渋滞で有名な原宿の交差点付近は立体交差工事が予定されており、道路の拡幅工事も進み以前の面影なく広々とした道路になっていました。
ひたすら藤沢を目指して進みますが途中、藤沢バイパスと藤沢江ノ島方面の道路が交差しており、歩行者はどちらの道を歩いたら良いかちょっと考えましたが、そのまま左側の歩道を進めば良いようです。
分岐地点脇の歩道左手には諏訪神社があり、境内のクスノキは名木古木に選定されているようです。
影取町と鉄砲宿の名前の由来は遊行寺近くのお金持ちの家で、かわいがられ飼われていた大蛇が、近くの池に捨てられ、池の水に映る旅人の姿を捕らえては、その影を飲み込んで飢えをしのぐようになり、影を飲まれると数日もたたずに死んでしまうといううわさが広まるようになり、鉄砲の名人に頼んで退治してもらい大蛇が住んでいた池を影取池、撃ち殺された辺りを鉄砲宿と呼ぶようになったという大蛇の伝説。

鉄砲宿から藤沢宿に掛けての通りには松並木が所々ありますが昭和35(1960)年松食い虫の被害で大半が枯れ旧東海道の松並木跡の碑が建てられていました。
遊行寺坂を下ると藤沢宿はもうすぐです。道路右側の歩道を走行していますと
途中に一里塚の標柱がありましたがあやうく坂を下る勢いで見逃す所でした。
諏訪神社が道路反対側に見えた所に江戸方見附の標柱を見掛けすぐ先は遊行寺です。
遊行寺。
時宗の総本山で正式名称は『藤澤山無量光院 清浄光寺』であるが時宗の法主が遊行上人といわれるところから遊行上人のおいでになるお寺という事で遊行寺と呼ばれるようになったそうです。
境内には紅梅白梅が咲いており、一遍上人の像や手水は龍の形をした物、境内の真ん中にはおおいちょうが植わっています。

中雀門(ちゅうじゃくもん)。
境内の建造物で一番古い建物で安政年間(1854-1860年)に建造され、向唐門づくりで高さ6メートル、幅は3.7メートル。側面の大棟に菊の御紋、屋根の下に徳川家の葵の紋が刻まれています。普段は閉じられており、春と秋の開山忌やお正月などに開門されるそうです。

遊行寺坂に戻り下りきると藤沢橋で、橋を渡り右折すると藤沢橋に平行して川に架かっている遊行寺橋があります。本陣は太いメイン通りの内側の細い道にあるようなので遊行寺橋の手前の道を走行しましたが、それらしい建物も碑も見つからず、白幡神社が見えるところまで走ってしまったので、一旦メイン通りに戻ると案内図があり、見てみると義経首洗井戸というのが近くにあるようなのでそちらを目指す事にしました。通りに出てすぐ交番手前に伝源義経首洗井戸と書かれた標柱があったので細い路地に入ってみました。
民家に囲まれた袋小路の一角に小さい公園のように遊具施設が置かれている中、義経首洗い井戸があります。
首実験の後に片瀬の浜に捨てられた義経の首が潮にのって境川をさかのぼり白旗神社付近に漂着し、この義経の首を里人がすくいあげ、この井戸で洗い清めたということから。
一説によれば、鎌倉に入る前に首実験に備え化粧を施したから、又、夜間に鎌倉方向から、首が目を見開いて亀の背に乗り飛んできたとも伝えられているそうです。

この後は本陣跡と藤沢宿上方見附跡を探したんですが、見つからず、小田急線藤沢本町駅から帰宅。
コメント
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