風は強かったんですが、天気も良い事ですし相鉄沿線の散策シリーズです。
かしわ台の駅の改札を出て右方向へ緩やかな下り坂を下って行くと下り切った先に目久尻川が流れています。
川の横には北部公園という多目的広場がある市民の憩いの場があり、川に沿って遊歩道が整備されていますので、しばらくはこの遊歩道を進んで行きます。
川としては護岸整備されておりこれと言って見所はありません。
北部公園を過ぎて杉本小学校を抜けた先に石碑と小さい空き地がありました。
石碑の文を読むと昔は目久尻川と丘陵に挟まれた狭い道しかなく物資の輸送には苦労したそうですが、大正6年に神中線(現在の相鉄線)の敷設工事の際に道路が整備された記念の石碑のようです。(多分)
ここでちょっと休憩して川から離れ車通りを進みます。
しばらく歩くと相鉄線の高架をくぐる道と線路に沿って歩く道に分かれますので、右手の線路に沿った道を進みます。
分かれてすぐの民家横に庚申塔・山王大権現・道祖神がありました。
しばらくは狭い道を線路に沿って歩いていると右手に弥生神社の看板が見えて来ますので、右手後方に進む坂道を上って行きます。
坂道を登り切ると左手に清水寺公園がありますので公園内を歩いて行った先に龍峰寺の仁王門が見えて来ます。
旧清水寺で禅寺として1341年に山円光大照禅師によって創建されたそうです。
仁王門と観音堂は元禄12年(1699年)に創建されたもので、仁王門は寛永4年(1751年)に再建、昭和51年(1976年)に解体修理された木造平屋建切妻造の四脚門で仁王像とともに海老名市指定重要文化財になっています。
旧清水寺の本堂であった観音堂も海老名市指定重要文化財で中に安置されている木造千手観音立像は国指定重要文化財だそうです。
観音堂を中心に時計回りに境内を散策すると階段下に神社らしきものがありましたので、本日の予定コースにはなかったんですがちょっと寄ってみました。
神社の裏手から参詣する形になりましたが、拝殿左奥に蚕影神社の社がありご利益は子授。
弥生神社は明治42年に四箇村に鎮座した四社を合祀して創建されたそうで祭神は誉田別命、猿田彦命、高産霊命、日本武男命です。
神社境内の石段をそのまま真っすぐに下り通りに出ると目の前は小田急線。
地図を確認すると龍峰寺の後に訪問する予定であった相模国分尼寺跡(金堂跡)のすぐ近くに出たようです。
車の通りの多い路地を通り右手に見えて来たのは原っぱ!
原っぱの中央辺りに社のようなものが見えるので中に入り歩いて行くとどうやらここが目指す相模国分尼寺跡でした。
解説によると『この寺院跡は、相模国分寺跡の北方約600メートルに位置しています。近年、寺域内の発掘調査が数次にわたって実施され、この金色堂跡のほか、講堂跡と鐘楼跡の基壇の一部が確認されました。その結果、中門・金堂・講堂が南北に並び、講堂の両脇に経蔵と鐘楼がつく伽藍配置をとること、規模は相模国分寺より一回り小さい事がわかりました。また、金堂跡の確認調査では、基壇上から桁行5間・粱行4間の大規模な礎石建物跡が検出されました。』平成3年3月31日 海老名市教育委員会
保護のため埋め戻されているようでここにあったんだなぁと確認するだけで終了。
次は一旦相鉄線の踏切を渡り、歩道がないのですが、車の交通量の多い道を歩いて一個目の信号を右折したところにある相模国分寺跡です。
道路の両端に原っぱです。
右側には国分寺講堂跡と書かれた石柱が建っていますが、ただの原っぱ!
左の原っぱには七重の塔の基壇が残っています。
ここは国指定史跡。
さて国分寺ですが天平13年(741年)聖武天皇によって国ごとに設置された宮寺で、奈良の東大寺、法華寺がそれぞれ総国分寺、総国分尼寺とされたもので当時、相模の国で一番景色もよく豊かで開かれていたのでこの地に国分寺、国分尼寺が建てられたそうです。
相模国分寺跡を抜けて行き海老名方面に向かって十字路の角に海老名の大ケヤキがあります。
神奈川県指定天然記念物です。
指定された時には根回り15.3メートル、目通り7.5メートル、樹高20メートルに達する大木だったそうですが、現在は風雨のためか樹木の衰えのためか所々コンクリートや竹で補強されて高さもそんなではありません。
言い伝えによれば船を留めるケヤキの杭が根付いて大木になったそうですが、ここまで入海であったでしょうか?
海老名の大ケヤキの先にあるのが、現在の相模国分寺。
高野山真言宗 東光山 国分寺(薬師寺)。
詳しくはリンク先でご確認下さい。
境内には国指定重要文化財である梵鐘と昔話として語り継がれている尼の泣き水があります。
左の梵鐘は鎌倉時代の末頃、国分に居館を構えていました海老名氏の一族国分季頼が当時の名工物部國光に鋳造させ正応5年(1292年)国分寺国分尼寺が薬師堂に移されていた時、寄進された。右が尼の泣き水でいくつも脚色された言い伝えが残っているようで『尼と漁師の 恋ものがたり』であったり『地元の漁師を救うため』であったりするようですが、基本的には国分寺の七堂伽藍の飾りが日差しを反射してキラキラ輝くので魚が逃げ、漁師が困ったので尼さんが放火して役人に捕まり処刑され、その地から水が枯れる事なく湧き出たので尼の泣き水と呼ばれるようになったという話のようです。
先程の海老名の大ケヤキの由来と併せて考えるとやはりここら辺は入海になっていたようですが、当時の地形はどうだったか非常に興味が出て来ました。
国分寺で今日の散策は終了。
ビナウォークの七重の塔(1/3サイズ)を眺め相鉄線に乗って帰宅。
かしわ台の駅の改札を出て右方向へ緩やかな下り坂を下って行くと下り切った先に目久尻川が流れています。
川の横には北部公園という多目的広場がある市民の憩いの場があり、川に沿って遊歩道が整備されていますので、しばらくはこの遊歩道を進んで行きます。
川としては護岸整備されておりこれと言って見所はありません。
北部公園を過ぎて杉本小学校を抜けた先に石碑と小さい空き地がありました。
石碑の文を読むと昔は目久尻川と丘陵に挟まれた狭い道しかなく物資の輸送には苦労したそうですが、大正6年に神中線(現在の相鉄線)の敷設工事の際に道路が整備された記念の石碑のようです。(多分)
ここでちょっと休憩して川から離れ車通りを進みます。
しばらく歩くと相鉄線の高架をくぐる道と線路に沿って歩く道に分かれますので、右手の線路に沿った道を進みます。
分かれてすぐの民家横に庚申塔・山王大権現・道祖神がありました。
しばらくは狭い道を線路に沿って歩いていると右手に弥生神社の看板が見えて来ますので、右手後方に進む坂道を上って行きます。
坂道を登り切ると左手に清水寺公園がありますので公園内を歩いて行った先に龍峰寺の仁王門が見えて来ます。
旧清水寺で禅寺として1341年に山円光大照禅師によって創建されたそうです。
仁王門と観音堂は元禄12年(1699年)に創建されたもので、仁王門は寛永4年(1751年)に再建、昭和51年(1976年)に解体修理された木造平屋建切妻造の四脚門で仁王像とともに海老名市指定重要文化財になっています。
旧清水寺の本堂であった観音堂も海老名市指定重要文化財で中に安置されている木造千手観音立像は国指定重要文化財だそうです。
観音堂を中心に時計回りに境内を散策すると階段下に神社らしきものがありましたので、本日の予定コースにはなかったんですがちょっと寄ってみました。
神社の裏手から参詣する形になりましたが、拝殿左奥に蚕影神社の社がありご利益は子授。
弥生神社は明治42年に四箇村に鎮座した四社を合祀して創建されたそうで祭神は誉田別命、猿田彦命、高産霊命、日本武男命です。
神社境内の石段をそのまま真っすぐに下り通りに出ると目の前は小田急線。
地図を確認すると龍峰寺の後に訪問する予定であった相模国分尼寺跡(金堂跡)のすぐ近くに出たようです。
車の通りの多い路地を通り右手に見えて来たのは原っぱ!
原っぱの中央辺りに社のようなものが見えるので中に入り歩いて行くとどうやらここが目指す相模国分尼寺跡でした。
解説によると『この寺院跡は、相模国分寺跡の北方約600メートルに位置しています。近年、寺域内の発掘調査が数次にわたって実施され、この金色堂跡のほか、講堂跡と鐘楼跡の基壇の一部が確認されました。その結果、中門・金堂・講堂が南北に並び、講堂の両脇に経蔵と鐘楼がつく伽藍配置をとること、規模は相模国分寺より一回り小さい事がわかりました。また、金堂跡の確認調査では、基壇上から桁行5間・粱行4間の大規模な礎石建物跡が検出されました。』平成3年3月31日 海老名市教育委員会
保護のため埋め戻されているようでここにあったんだなぁと確認するだけで終了。
次は一旦相鉄線の踏切を渡り、歩道がないのですが、車の交通量の多い道を歩いて一個目の信号を右折したところにある相模国分寺跡です。
道路の両端に原っぱです。
右側には国分寺講堂跡と書かれた石柱が建っていますが、ただの原っぱ!
左の原っぱには七重の塔の基壇が残っています。
ここは国指定史跡。
さて国分寺ですが天平13年(741年)聖武天皇によって国ごとに設置された宮寺で、奈良の東大寺、法華寺がそれぞれ総国分寺、総国分尼寺とされたもので当時、相模の国で一番景色もよく豊かで開かれていたのでこの地に国分寺、国分尼寺が建てられたそうです。
相模国分寺跡を抜けて行き海老名方面に向かって十字路の角に海老名の大ケヤキがあります。
神奈川県指定天然記念物です。
指定された時には根回り15.3メートル、目通り7.5メートル、樹高20メートルに達する大木だったそうですが、現在は風雨のためか樹木の衰えのためか所々コンクリートや竹で補強されて高さもそんなではありません。
言い伝えによれば船を留めるケヤキの杭が根付いて大木になったそうですが、ここまで入海であったでしょうか?
海老名の大ケヤキの先にあるのが、現在の相模国分寺。
高野山真言宗 東光山 国分寺(薬師寺)。
詳しくはリンク先でご確認下さい。
境内には国指定重要文化財である梵鐘と昔話として語り継がれている尼の泣き水があります。
左の梵鐘は鎌倉時代の末頃、国分に居館を構えていました海老名氏の一族国分季頼が当時の名工物部國光に鋳造させ正応5年(1292年)国分寺国分尼寺が薬師堂に移されていた時、寄進された。右が尼の泣き水でいくつも脚色された言い伝えが残っているようで『尼と漁師の 恋ものがたり』であったり『地元の漁師を救うため』であったりするようですが、基本的には国分寺の七堂伽藍の飾りが日差しを反射してキラキラ輝くので魚が逃げ、漁師が困ったので尼さんが放火して役人に捕まり処刑され、その地から水が枯れる事なく湧き出たので尼の泣き水と呼ばれるようになったという話のようです。
先程の海老名の大ケヤキの由来と併せて考えるとやはりここら辺は入海になっていたようですが、当時の地形はどうだったか非常に興味が出て来ました。
国分寺で今日の散策は終了。
ビナウォークの七重の塔(1/3サイズ)を眺め相鉄線に乗って帰宅。