明治2年、北海道は松浦武四郎の案をもとに呼称が“蝦夷(えぞ)”から“北海道”に変更され11国86郡が置かれた。明治4年には、「廃藩置県」で藩が廃止され県が設置された。
11国とは、石狩、十勝、釧路、根室、日高、北見、天塩、胆振、後志、渡島、後志である。設置された11国は全国の県をイメージすればよく、北海道の面積は東北6県の約1.3倍と大きいのである。
その中でも十勝の面積は、日本の7番目の広さを誇る岐阜県とほぼ同じで、2番目は岩手県、3番目は福島県である。なお蝦夷とは異民族の呼称で、“蝦夷地”とは、異民族の住む地という意味である。
明治政府は明治7年、「屯田兵制度」を定めた。屯田兵とは平時には農耕に従事し、戦争がおこった時には兵務に従事する辺境防備の農兵のことで、廃藩置県により職を失った旧藩士や旧士族が団体で北海道に入植したのである。
北海道(外地)の開拓は、明治30年公布の「北海道国有未開地処分法」によりさらに促進された。この法律で本州(内地)の富豪や華族らが、大規模な農地を持つ契機となったが、この法律に先立ち北海道庁は、団結移住に関する要領を定めて、全国から農民の誘致を積極的に進め、その骨子は次のとおりであった。
① 団体移住の奨励
② 貸付地予定存置制度採用
③ 渡航船車賃の割引 など
ただ十勝には屯田兵が入植せず、静岡県出身のクリスチャン “依田勉三”が率いる民間人26人の“晩成社”などによって開拓が進められ、十勝の県別入植者数の10傑を見ると、次のとおりである。
①富山、②岐阜、③宮城、④福島、⑤福井、⑥徳島、⑦石川、⑧香川、⑨山形、⑩新潟
十勝には全国から開拓に入ったが、富山と岐阜の入植者が二つの県で42%を占めている。その理由は両県とも、濃尾地震や土地事情などから十勝への入植に積極的であったこと、また“フードバレーとかち”と言われるように、肥沃な土地が魅力的に映ったのだろう。
ところが、十勝の開拓は“ヤチボウズ”などが繁茂しそんなに生易しいものではなく、艱難辛苦の連続であった。それを象徴しているのが依田勉三の詠んだ句、“開拓の初めは豚とひとつ鍋”である。
ひとつ鍋とは、人とのつながりである。現代は、この人とのつながりを失いつつあるが、「新型コロナ禍」を機に変わる気配があるのは救いでもある。
「十勝の活性化を考える会」会長
注) 晩成社
原野を切り拓き、農業王国の礎を築いた立役者
十勝開拓の先駆者が直面した、過酷な開墾生活の実態1883年に、現在の帯広市へ入植した依田勉三が率いる晩成社によって、十勝内陸部の本格的な開拓が始まります。原生林を切り拓き、鍬を下ろし、米、麦、粟、豆といった穀類に加え、野菜類を栽培しました。しかし度重なる冷害やバッタ、ノネズミの襲来などにより、その開墾生活は苦難に満ちたものでした。後に晩成社当縁牧場を開設、半地下式のサイロを作り、牛肉やバター製造に取り組み、函館や東京で販売するなど、時代を先取りした経営を展開します。
数多くの失敗によって発展していった十勝地方の農産業
晩成社の事業の多くは失敗に終わっていますが、1900年頃から移住者が増え、十勝地方の開拓が進んでいきました。大樹町には依田勉三の住居が復元されていますが、そこから彼の質素な生活ぶりを窺うことができます。十勝の開拓は、北海道に多く見られた屯田兵が設置されず、晩成社をはじめ、富山、岐阜など本州からの民間の開拓移民によって進められていった。 (出典:北海道観光振興機構ホームページより)
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