十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

人は見た目が9割

2019-08-31 05:00:00 | 投稿
 私が通っていたリハビリ施設に、70歳になる全盲の人がいました。彼は50歳の時、突然に視神経が切れて視力を失ったそうです。人が情報を得るには、視覚情報が55%、聴覚情報が38%、言語情報が7%と言われており、これを「メラビィアンの法則」といいます。
メラビアンの法則によると視覚により得られる情報が最も多く、障害者で有名なヘレン・ケラーは、「三重苦」でした。また人は見た目が9割といわれ、外見で人を判断するそうです。確かに私も外見で人を判断していましたので、これからは注意したいと思います。
 
ところで日本では、「書く技術」を磨くが、「スピーチ」は疎かになりがちである。メールやSNSで、すべての連絡を済ませようとする人が増えている。だが、「スピーチ」は本能に訴える力を持つので、それを身につけるメリットは大きい。
かつては田中角栄首相や小泉純一郎首相など、声の力で政治を動かした人がいた。
現代のようにメール文化がどんなに進んでも、重要案件や商談をメール一本で済ますことは、まずありえない。最後は、「フェースツーフェース」で相手を信頼させ、説得させねばならないのだ。
「十勝の活性化を考える会」会長
 
注)メラビアンの法則
メラビアンの法則とは、矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかを判断するアルバート・メラビアンが行った実験についての俗流解釈である。 
 
この研究は好意・反感などの態度や感情のコミュニケーションについて扱う実験である。感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかというと、話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合であった。この割合から「7-38-55のルール」とも言われる。
「言語情報=Verbal」「聴覚情報=Vocal」「視覚情報=Visual」の頭文字を取って「3Vの法則」ともいわれている。
                         (出典: 『ウィキペディア(wikipedia)』)
 
注) ヘレン・ケラー
ヘレン・アダムス・ケラーは、アメリカ合衆国の教育家、社会福祉活動家、著作家。 
視覚と聴覚の重複障害者(盲ろう者)でありながらも世界各地を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に尽くした。 
 
二度目の来日をしたヘレン・ケラー。忠犬ハチ公像に触れる。(1948年8月30日)
  • 1887年(7歳) - ヘレンの両親は聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベルを訪れ、ベルの紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長マイケル・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。3月3日に派遣されてきたのが、同校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)であった。サリヴァンは小さい頃から弱視であったため、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンはあきらめかけていた「話すこと」ができるようになった。サリヴァンは、その後約50年に渡りよき教師、そしてよき友人としてヘレンを支えていくことになる。
  • 1937年(昭和12年)(56歳) - 岩橋武夫の要請を受け来日し、3ヶ月半に渡り日本各地を訪問した。 
  • 1961年(81歳) - 軽い脳卒中になり、徐々に外界との接触を失う。
  • 1948年(昭和23年)8月(68歳) - 2度目の訪日。2か月滞在して全国を講演してまわる。これを記念して2年後の1950年(昭和25年)、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現:東京ヘレン・ケラー協会)と財団法人西日本ヘレンケラー財団(現:社会福祉法人日本ヘレンケラー財団)が設立されている。
  • 1955年(昭和30年)(75歳) - サリヴァンの伝記『先生』を出版。3度目の訪日も実施し、熱烈な歓迎を受けた。訪日の理由の1つは、1954年(昭和29年)に没した朋友岩橋武夫に花を手向けるためであった。ヘレンは空港で岩橋の名を叫び、岩橋の家では泣き崩れたという。勲三等瑞宝章を授けられる。
  • 1961年(81歳) - 軽い脳卒中になり、徐々に外界との接触を失う。
  • 1964年9月(84歳) - アメリカ政府から大統領自由勲章が贈られる。
  • 1968年6月1日(87歳) - コネチカット州イーストンの自宅で死去。87歳没。88歳の誕生日の約4週間前の死であった。ワシントン大聖堂で葬儀が行われ、地下礼拝堂壁内の納骨堂にサリヴァン、トンプソンと共に葬られている。死後、日本政府から勲一等瑞宝章が贈られる。
[政治的活動]
ヘレンは福祉活動のみならず、広範囲な政治的関心を持って活動した女性であった。当時としては先進的な思想を持ち、男女同権論者として婦人参政権、コンドームの使用を主張した。また、人種差別反対論者であり、過酷な若年労働や死刑制度、そして第一次世界大戦の殺戮にも反対した。
これらの活動のため、ヘレンはFBIの要調査人物に挙げられている。最初の訪日の際には、特別高等警察の監視対象になっていた。
(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』からの抜粋)
 

井上伝蔵 葬儀執行の寺

2019-08-30 05:00:00 | 投稿


北見市内を東に散策していくと、なにげにこのような史跡に巡り合える。

 

 

自由民権運動家
 『井上伝蔵葬儀執行の寺』
 明治十七年〔一八八四年〕秩父事件の中心的人物であった井上伝蔵は、政府の執ような追求を逃れコツ然と秩父地方から姿を消し逃亡死刑囚の身となったのである。
大正七年(一九一八年)六月二十三日に野付牛町(現北見市)で伊藤房次郎なる人物が家族に見守られながら他界した。
この房次郎ここそ三十五年間逃亡死刑囚としで身を隠し続けていた井上伝蔵であり享年六十五才であった。
 井上伝蔵は秩父事件の敗北後、下吉田村(現埼玉県吉田町)のある家の土蔵で二年間身を潜め、その後明治二十年秋渡道し、以後石狩・札幌を経て明治四十五年(一九一二年)の春野付牛町に住まいを定めた。
 伝蔵はその後古物商を営んではいたがあまり店にも出ず深く潜伏していたようである。
 伊藤房次郎が井上伝蔵であると判明したのは本人の遺言からであり、それまでは籍の入っていなかった妻も子供も知らぬ事であった。
 葬儀は当聖徳寺の住職三林遵護師の特別のはからいで執行され、また院号も贈られ過去帳にも特記される事となった。

『大正七年六月廿三日
 彰神院釈重誓
 一条通り 高浜道具店
      井上伝蔵 六十五歳
      長男 洋の実父なり
      遵護取置
      此人埼玉県秩父の人、明治十七年秩父事件の国事犯、逃亡北海道に入り後、死期に至って妻及び子洋に実を告ぐ』
当聖徳寺保存の過去帳の一部より

北見観光協会

 

「秩父颪」小池喜孝著

 

 現在の聖徳寺跡(本寺は別な場所に移転している)

 

 

北見の人々は「国事犯」・「逃亡死刑囚」井上伝蔵に対し、実におおらかに対応していた。

当時北海道に渡ってくる者が、様々な過去の事情を抱えていることは皆同じであった。

また、井上伝蔵自身が死を予感して、地元新聞記者と懇意になっていたり、まさに忌のきわに妻子の戸籍を一気に整理して入籍させたりといろいろな準備をしていた。秩父蜂起から関東一斉蜂起をまき起こし、明治政府打倒という遠大な戦略を立てた井上らしい手際である。

35年間の逃亡生活を余儀なくされていたが、その心中には自由民権の熱い思いが貫かれており、遺言として実子や新聞記者を呼び寄せ、あるいは記念写真を撮らせ、「秩父事件」の真相と目指していたものを世に問いかける最後の戦いであった。

その思いは80年後に、民衆史研究家 小池喜孝氏により、より鮮明な記録として掘り起こされ世に放たれた。そして「秩父事件90周年」として、地元秩父の人たちと協力して見事に復権して行ったのである。

映画「草の乱」が有名である。

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【魂】

2019-08-29 05:00:00 | 投稿

【魂】

 

連続テレビ小説「なつぞら」を見ていたら、主役である“なつ”の演劇部の顧問教師が、部員にもっと演技に「」を入れるようにと言っていた。顧問教師は、「もっと本気になってやれ」と言いたかったのだろう。

この「魂(たましい)」のことであるが、私たちは人口減少問題について本気に考えているか、「魂」を入れているか、自問自答してみよう。なぜなら人口減少問題は、毎日、マスコミで取り上げられているとおり、日本の大問題であるからだ。このことは単なる人口問題に留まらず、国債にも関係している。

 

日本は先進国の中でずば抜けて国債を乱発しており、国家予算を担う財務省でも、「我が国の財政状態は危機的な状況にある」と言っている。ある人が人口減少問題を解決するためには、約100年(4世代)は必要と言っていた。またある人は、人口の減少は限りなく続く予想で、底が見えないとも言っていた。

 

 ところでマスメディアのことであるが、20年前のマスメディアはテレビや新聞であったが、今はスマホの時代である。ただテレビや新聞、スマホにしても、政治家と同じように時々ウソを言うことがあるので全てを信用してはいけない。しかし元をただせば、全て私たちが選んだ結果であり、仕方ないと思う。

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沖縄とアイヌ

2019-08-28 05:00:00 | 投稿

先日、澤田洋太郎著「沖縄とアイヌ」の本には、以下のことが書かれていた。

 

『アイヌをこよなく愛した松浦武四郎は、1858年に十勝の山道でいくつかの石の矢尻や石の斧を発見している。これらはアイヌの祖先が使ったものであるが、その後の研究により、北海道では本州より少し遅れて縄文時代が始まったことが判明している。

 しかし、稲作を伴う弥生文化は北海道には伝わっておらず、西暦紀元以降でも「続縄文」と名づけられる文化が、七~八世紀ごろまで続いていたのである。 この文化は北海道だけでなく、津軽海峡をはさんだ青森県のものとも共通しており、この両地域には同じような人びと、つまり弥生文化を持つ倭人によって本州の中央部方面から、いわば追い詰められて来た列島先住民がいたことを意味していると思われる。

と言うことは、北海道の「続縄文文化人」が、後にアイヌと呼ばれる人びとになったとすれば、彼らの先住民は本州の先住民で、弥生文化を拒絶した者たちの子孫であり蝦夷(エミシ)の生き残りということになり、蝦夷とアイヌを結びつける証拠となるわけである。

 一般に、縄文土器を使う新石器時代が始まった今から12千年前よりも以前の旧石器時代には、土器は使用されていなかったので、その時代は「先土器時代」とよばれている。そして、近年までは「日本列島には先土器時代はない」というのが日本の考古学の定説とされていた。

しかし1952(昭和27)年に、群馬県の岩宿で相沢忠洋氏が関東ローム層の赤土の中から縄文以前の旧石器を発見したことによって、この定説は破られてしまう。そして、北海道でもその翌年には、赤土層から旧石器が発見されたのである。

以降、湧別川にそった白滝遺跡など多くの場所から続ぞくと旧石器が見つかっている。

 白滝遺跡の住民の生活は、2万年から16千年前ごろまで続いていたものと推定されている。当時は気候が寒冷で「海退期」に相当していたから、北海道から本州・四国・九州まで陸つづきであり、動物も人間も自由に行き来しており、その文化は日本列島全域に共通するものであったはずである。

しかも、樺太を経て大陸とも接続するものであった。したがって、1万年前ごろ海面上昇が始まり、北海道が島になってからは、縄文文化は二つの地域で、それぞれ独自に展開されることになったわけである。(後略)』

 

以上のように北海道人は、縄文人弥生人蝦夷(エミシ)アイヌ北海道人 と続くのであるが、弥生人が大陸方面からきて、北(アイヌ)と南(沖縄人)に追いやられて道産子が生まれたのである。私は青森県に住んでいたのであるが、当時、青森県には津軽アイヌコタンや下北アイヌコタンが沢山あった。DNA検査でも、沖縄人とアイヌのDNAが似ているそうで、沖縄人とアイヌの顔が似ているのもそこから来ている。もっと言えば、日本人と韓国人、日本人と中国人、日本人とアジア人の顔が似ているのもDNAから来ているのである。

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