私は43歳の時に3年間、青森県に住んだことがある。それで分かったのだが、青森県にもアイヌコタン跡がたくさんあったのである。私は帯広市にあった“伏古アイヌコタン”や“音更アイヌコタン”のそばで育ったので、すぐにアイヌコタンだと分かったのである。
アイヌに関する本を50冊ばかり読んだが、東北地方にも青森アイヌや秋田アイヌなどいろいろなアイヌが住んでいたらしい。東北人にとってアイヌという言葉は差別用語と聞こえるらしく、一部ではあるが自分たちのことを“エミシ(アイヌ)”と言われたくないらしい。ただ、「エミシそれ自身がアイヌ」、又は「エミシのすべてがアイヌの祖先である」と断定できるだけの証拠はないのが現状である。
アイヌと言われ始めたのは18世紀前後で、古くは“エミシ”、その後にエビス、エゾ、アイノ、カイノなどと呼ばれていた。エミシとは荒ぶる人の意味であって、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東国(現在の関東地方と東北地方)や、現在の北海道や樺太などに住んでいた人々の呼称である。
本州では、弥生文化が定着したあとにも従来の縄文文化を守りつづけ、弥生文化に同化しなかった人々、それがエミシ(アイヌ)だったのである。アイヌは縄文人の末裔で、1994年(平成6)、青森市の近郊で約4,500年前と見られる“三内丸山遺跡”という大規模集落跡が発掘されたが、これも縄文人の遺跡である。
大和政権の支配地域が広がるにつれて、エミシの人々が住む範囲は変化していった。近代以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指している学者も多い。
エミシは古くは愛瀰詩と書き(神武東征記)、次に毛人(もうじん)と表されたらしい。西暦801年、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、“蝦夷(エミシ)征討”を行なっている。彼はエミシの征伐を行ない、多賀城(現在の多賀城市)から戦線の拡大に伴い、鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市)へ移している。“エゾ”という言葉が使われ始めたのは11世紀か12世紀頃で、NHK大河ドラマ“鎌倉殿の13人”にたびたび出てくる毛人は、エミシのことである。
海保嶺夫著『エゾの歴史』(講談社)によれば、エゾの言葉の初出に関しては、承暦元年(1077年)、又は天永年間(1110〜13年)頃に成立されたとされる、『今昔物語』が初出とされている。
北海道や東北地方にアイヌ語を語源とする地名が多いのは、アイヌが住んでいた証拠で、新潟市駅前に「沼垂(ぬったり)」という地名があるが、これもアイヌ語が語源である。もっとも、九州の隼人や熊襲もエミシ族(アイヌ)なので、エミシは学者が言うように、全国に住んでいたかもしれない。なお、私の母方の祖父母は青森県と岩手県生まれなので、私にはアイヌの血が流れていることになる。
「十勝の活性化を考える会」会員