いま、「新型コロナウイルス」が、世界に猛威を振るっている。ウイルスが人類に対して、反旗を翻しているようだ。自然温暖化を生じさせたのは、私たち人間である。この100年間で、十勝の平均気温が2度も上昇し、これからの100年間に、4〜5度も上昇する予測もある。
地球上では平均気温の上昇で砂漠化し、作物が枯れて多くの人が死亡、または飢餓に陥っている。そして、オーストラリアの火災では、6億匹の動物が焼け死んだそうだ。まさに、地獄の世界を見るようだ。ただ、“ピンチはチャンス!”に変える絶好の機会でもある。
政府がイベントを中止し、子どもは学校に行かずに自宅で待機せよと言っているので、この機会に働き方を改革しようではありませんか。
最近、むっつり顔で働いている人が意外と多い。きっと毎日が多忙なのだろう。 忙しいという字は心が失うと書くから、心を失っているのだろう。
先日、ルース・ベネディクト著 「菊と刀」の本に、以下のように書かれていた。
『西欧人は、彼の目から見れば主義の変更としか見られない、このような変化を眺めて、それに疑念を抱く。しかしながらそれは、個人的な関係でおいてであれ、国際的な関係でおいてであれ、日本人の処世法の必要欠くべからず一要素となっているのである。
日本人は、ある一定の行動方針を取って、目標を達成できなかった場合には、「誤り」を犯したというふうに考える。彼は、ある行動が失敗に終われば、それを敗れた主張として棄て去る。
彼はいつまでも執拗に、敗れた主張を固守するような性格にはできていない。日本人は、「ほぞを噛んでも無益である」と言う。
1930年代には軍国主義が一般に容認されていた手段であって、彼らはそれによって世界の称賛を得ることができると考えた。そして、そのような計画が要求する一切の犠牲を忍んだ。
1945年8月14日に日本の最高至上の声として認められている天皇が、彼らに敗戦を告げた。彼らは、敗戦の事実が意味する一切の事柄を受け入れた。
それは、アメリカ軍の進駐を意味した。そこで彼らは、アメリカ軍を歓迎した。それは彼らの侵略企図の失敗を意味した。そこで彼らは進んで、戦争を放棄する憲法の立案に取りかかった。
対日戦勝日の10日後に、日本の一新聞、『読売報知』は、「新たな芸術と新たな文化の発足」という論説をかかげ、その中で次のように論じている。
「われわれは心の中に、軍事的敗北は一国の文化の価値とは何のかかわりもないものであるという、確固たる信念を持たなければならない。軍事的敗北は、それを一つの転機として役立てなければならない。
(中略)
日本国民が世界に思いを馳せ、事物をあるがままに客観的に見ることができるようになるためには、国家的敗北という甚だしい犠牲が必要だったのである。これまで日本人の思考を歪めていた一切の非合理性は素直な分析によって、除去しなければならない。 (中略)
この敗戦を冷厳な事実として直視するには、勇気を必要とする。しかしながら、われわれは、明日の日本の文化に信頼を置かなければならない」
われわれは、一つの行動方針を試みて敗れた。今日からは、ひとつの平和的な処世術を試みてみよう、というのである。
日本の各新聞の論説は、「日本は世界の国々の間に伍して尊敬されるようにならねばとならない」ということをくり返し論じた。そしてこのあらたな基礎の上に立った尊敬に値する人間となることが、日本国民の義務とされた。(後略)』
私はこの本を読んで、日本人は他国の人と比べて違っていると思った。1年前、U―18アイスホッケー世界大会が帯広市で開かれ、決勝戦はアメリカチームとカナダチームで行なわれたが、この時も同じように感じた。外国人は、素直に感情や表情を表わす。
一方、日本人は「恥じらい文化」というか、素直に表情や感情を表わさないことが多い。日本人は、周りの空気を読む場合が多く神経がこまやかである。だから、俳句や短歌の気持ちが分かるのであろう。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」
「荒海や 佐渡に横たう 天の川」 (松尾 芭蕉)
この俳句の情景や作者の気持ちが分かるのは、自分が日本人であるからであろう。ただ最近は、外国人にも俳句などをやる人が多くなっていると聞く。
「十勝の活性化を考える会」会員