先日、泰正純著“司馬遼太郎の風景”の本を読んだ。著者は、NHKプロジェクトのチーフディレクター。この本は、資本主義に酔いしれる日本を痛切に批判した司馬遼太郎氏のことを書いていた。その一節を書こう。
“街道をゆく”の取材をはじめた1970年以来、司馬さんは常にテーマの中心に「土地」というものを据えてきた。司馬さんにとっての土地とは、人々に生を与え、暮らしを支えてくれるという、いわば万民に等しく、かけがえのない存在でなければならなかった。その土地を日本政府は、さも新商品を開発したかのごとく土地ブームをあおり、売買しはじめたのである。
ことここに及んで、司馬さんの日本を支える気持ちは風船のようにふくらみ、まさに万感の決意を持って席を立つといった激しさで、各方面に苦言を呈していくことになった。
「資本主義はあくまでも物を作ってそれを売ることによって利潤を得るものであり、企業の土地投機や土地操作によって利益を得るなどは、何主義でもない。が、その刺激が日本人の経済意識を大きな部分において変質させ、民族をあげて不動産屋になったかのような観を呈し、本来、生産、もしくは基本的には言えば社会的存立の基礎であり、さらに基本的にいえば人間の生存の基礎である土地が投機の対象にされるという奇現象がおこった。
大地についての不安は、結局は人間をして自分が属する社会に安んじて身を託してゆけないという基本的な不安につながり、私どもの精神の重要な部分を荒廃させた。まことに迷惑な話で、どうにも安んじてこの社会に住んでゆけないという居たたまれぬ気持ちが、私に土地のことを考えさせることになった。」
私の知る司馬さんは、常に政治とは距離を置き、まして、ときの政権に具申するなどいうことは避けていた。唐の李白や白居易が、王朝風刺の詩を歴史になぞらえたように、司馬さんもまた過去の歴史に範を取り、今生きる社会の道しるべとしてきた。それは現代への優しい心づかいであり、そこに真剣に苦慮している人たちへの配慮をこめた温かいまなざしであった。ところが、こと土地に関してだけは違っていた。「歴史を顧みず、反省できない社会に未来はない」と、司馬さんはつくづく感じていたのだろう。(後略)』
日本はいま、新型コロナや地球温暖化で右往左往している。少し高い代償になっているが、この経験を活かせばよいのである。過去の歴史を振り返ることによって見えてくるものがある。そのために、日本や世界に関する歴史の本を読みあさっている。中国、朝鮮、台湾、アフガジスタン、イラン、ヨーロッパなど、知らなかった世界も歴史も見えてきた。
コロナ対策の10万円給付金などで大騒ぎをしているが、目先にとらわれず100年後の日本や世界を考えることも大切だろう。日本で言えば人口減少が始まっており、国債累増の解消や一極集中、地方では過疎化で土地が収益を産まない時代に入ってきたのである。私は、100年後の日本という国を憂うるばかりである。
「十勝の活性化を考える会」会員