自分の「名字」が、いつから使われるようになったのかを知っていますか? 由緒ある家や旧家出身の方でない限り、ご存知の方は少ないと思います。自分の名字にも付いた理由があり由来があります。
現在、名字は7万ほどあるそうです。その中には、珍しい名前もたくさんありますね。「東国原(ひがしこくばる)」・「美土路(みとろ)」という名前も珍しく、日本姓氏辞典によりますと東国原さんは鹿児島県に多く、美土路さんは主に「岡山」「兵庫」「広島」「大阪」「北海道」の順に多く分布しているようです。
私が青森市に住んでいた時、名字が“川守田”という同じ高校の後輩にお会いしました。青森県三戸町に“川守田町”という地名があり、彼のご先祖が青森県出身で、自分のルーツを調べるためにその町を訪ねたそうです。
また私は年に一回、市内の病院でMRI検査を受けています。その脳外科医師は、“能代”先生と言います。秋田県能代市には能代という名前の人が多いそうで、そのあたりがご先祖の出身地かもしれません。なお、アイヌの歴史の本を読むと、アキタアイヌやノシロアイヌと呼ばれた人々が、秋田県に住んでいました。
さらに私は、機能回復型デイサービスを利用していますが、利用者の方で“黄海”という名字の人がいます。前九年の役(1051年~1062年)に「黄海の戦い」というものがありましたが、岩手県一関市にも黄海町という地名がありますので、ご先祖はそのあたりのご出身でないかと思われます。前九年の役とは、平安時代後期の東北地方で起こった和人とエミシ(アイヌ)との戦いです。このように名前は、出身地の地名を使っている場合が多いように思います。
先日、帯広百年記念館で京都府出身の「似内(にたない)」という女性獣医師にお会いしました。 あまり聞きなれない名前なので調べてみるとアイヌ語が由来で、岩手県花巻市に“似内”という地名がありご先祖の出身地でした。
江戸時代までは公的に名字(苗字)を使ったのは、原則として公家及び武士、一部の商人に限られていました。 当時の国民で苗字を使用しない者も多かったために、1875年(明治8年)に初めて、苗字の使用を義務づける「平民苗字必称義務令」を出しています。
北海道平取町二風谷は、14世紀前後を「ニブタニ文化期」といわれるほどアイヌの人たちが多く住んでいるところですが、平取町にも似内地区があります。平取町では、「貝澤」と「二谷」姓が付けられたアイヌが多かったそうです。
明治5年の「壬申戸籍」では、全国の人口が約3,300万人です。北海道の人口は約11万人ですが、これが明治15年には24万人、明治25年51万人、明治35年105万人、大正元年には174万人と増えていくのです。 その理由は明治2年の版籍奉還により、特権階級を失った武士が屯田兵として北海道へ入植したからです。
北海道には、本州の武士たちが住んでいた地名や藩の名前をつける場合が多く、札幌市の白石や伊達市、日本ハムの新球場ができる北広島市、奈良県の十津川の人々が入植した新十津川町などもその地名にちなんでいます。
北海道には「屯田」 という地名も多いですが、屯田兵が入植し開拓したからです。 屯田兵とは、明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊であります。
「十勝の活性化を考える会」会員