十勝の活性化を考える会

     
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シリア内戦の写真

2019-07-31 05:00:00 | 投稿

令和元年729日のテレビで、以下のことを報じていた。

シリア北西部イドリブ県の町アリハで、アサド政権軍の空爆で崩壊した建物のがれきに埋もれた姉妹を撮影した写真が、ソーシャルメディア上で世界の耳目を集めている。5歳の少女が、転落しそうになっている生後7カ月の妹のシャツを必死につかんでいる写真だ。

近くの病院で治療に当たった医師によれば、5歳の姉は直後に死亡。生後7カ月の妹は頭を負傷し、「24時間、人工呼吸器を外せない状態」だという。別の姉も胸の手術を受けたそうだ。 少女らは両親と6人姉妹の計8人家族で、母親と他の娘2人も死亡した。

(引用:時事ドットコム)

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注)シリア内戦

シリア内戦は、シリア2011年3月15日に起きた一連の騒乱から続く、シリア政府軍とシリアの反体制派及びそれらの同盟組織などによる内戦である。

[概要]

(混乱により破壊されたホムス市内)

シリアにおける内戦は、2011年にチュニジアで起きたジャスミン革命の影響によってアラブ諸国に波及したアラブの春のうちの一つであり、シリアの歴史上「未曾有」のものといわれている。チュニジアのジャスミン革命とエジプト民主化革命のように、初期はデモ行進ハンガーストライキを含む様々なタイプの抗議の形態をとった市民抵抗の持続的運動とも言われた。初期の戦闘はバッシャール・アル=アサド政権派のシリア軍と反政権派勢力の民兵との衝突が主たるものであったが、サラフィー・ジハード主義勢力のアル=ヌスラ戦線とシリア北部のクルド人勢力の間での衝突も生じている。その後は反政権派勢力間での戦闘、さらに混乱に乗じて過激派組織ISILやアル=ヌスラ戦線、またクルド民主統一党をはじめとしたシリア北部のクルド人勢力ロジャヴァが参戦したほか、アサド政権の打倒およびISIL掃討のためにアメリカフランスをはじめとした多国籍軍、逆にアサド政権を支援するロシアイランもシリア領内に空爆などの軍事介入を行っており、内戦は泥沼化している。また、トルコサウジアラビアカタールもアサド政権打倒や自国の安全・権益確保のために反政府武装勢力への資金援助、武器付与等の軍事支援を行った。

アサド政権の支配地域は一時、国土の3割程度に縮小したが、ロシアやイランの支援を得たことと、反政権諸勢力のうちISILが外国や他の非政権軍の攻撃対象になって壊滅したことで勢力を回復。2019年春時点でシリア領土の7割前後を奪還した。

反体制派からの情報を収集する英国拠点の反体制派組織シリア人権監視団は2013年8月末の時点で死者が11万人を超えたと発表している。国際連合により、2012年5月下旬の時点でもはや死者数の推計は不可能と判断されている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の推計によると、2017年までに元の居住地を離れて約630万人が国内で避難生活を送り、500万人以上が国外に逃れた。こうした難民の主な行き先としてはトルコ(320万人)、レバノン(100万人)、ヨルダン(65万人)、イラク(24万人)、エジプト(12万人)で、トルコなどを経由してヨーロッパなどに渡った人々も多い。日本には2014年6月20日時点で52人が難民申請しているが、日本政府は一人も認めていない。

反政府武装組織の一つ自由シリア軍により教会が破壊されたとされる事例をはじめ、反政府主義者によるキリスト教徒(その大半は正教非カルケドン派東方典礼カトリック教会といった東方教会の信者)への排撃が問題となる局面も出てきている。

2014年に入り、ISILと、シリア反政府勢力との間で戦闘が激化した。当初、ISILは、シリア反政府勢力から歓迎されていたが、ISILが他の反体制派組織を支配下に置こうとして内紛が起きた。さらには、ISILが一般市民も巻き込んで暴力を振るうようになり、関係が悪化した。反体制派の主要組織である「国民連合」は、ISILとの戦闘を全面的に支持している。急速に勢力を拡大させたISILに対し、反体制派が依然として内紛を繰り返す状況で、シリア国内では唯一ISILに対抗できる存在であるアサド政権の国際的価値が高まり、欧州各国や国連、シリア国内の反体制派ですら、当初の要求であったアサド大統領の退陣を要求しなくなっている。しかしアサド政権が4月4日に行ったカーン・シェイクン化学兵器攻撃を受けてアメリカ軍はアサド政権のシャイラト空軍基地攻撃を行った。また、実態として西側諸国が穏健派とする反政府武装勢力やアルカイダ系組織・ISILの間に明確な線引きをするのは難しく、各勢力が強固な組織を基盤としているわけではない。さらに、いずれも反アサド政権・反世俗主義・反シーア派・反少数派イスラム教(アラウィー派ドゥルーズ派等)、反キリスト教スンニ派イスラム主義組織であるという共通点があることから、資金力の増減や戦況の良し悪しによって戦闘員の寝返りや武器交換も相互に行われている。そのため、あくまでもISILも反政府武装勢力のうちの一つととらえた方が実態に近く、イスラム国の残虐性だけが突出しているわけではない。さらに、シリア政府側に立つ組織もシリア軍の他にシーア派民兵やヒズボラやイランのイスラム革命防衛隊なども参戦しており、これもまた統率が取れているわけではない。実際に、アルカイダは自由シリア軍などの反政府勢力と協力している。さらに、アルカイダ系武装集団は、2013年9月に協力体制にあったはずの自由シリア軍に攻撃を仕掛けるなど、アサド政権・反政府勢力の双方と敵対し、シリア国内は三つ巴の戦いになりつつある。更にアルカーイダと協力関係にあった武装集団ISIL(イラク・レバントのイスラム国)が、2013年5月に出されたアルカイダの指導者アイマン・ザワーヒリーの解散命令を無視してシリアでの活動を続けているなど、アルカイダやアル=ヌスラ戦線との不和も表面化している。他にも、クルド人などのシリア国内の少数民族も武装化して、政府軍やアルカイダ系の武装集団を襲撃して事実上の自治を行っており、さらにイラククルド人自治区のような正式な自治区を作ろうとしている。

シリアで内戦が激化している理由として、主に4つがあげられる。まずは、アラブイスラム世界の中で敵対関係にあるイスラエルなどと国境を接するという地政学的事情。次にシリアバース党政権が一貫した親露、親イランである一方、親欧米・親NATO諸国であるサウジアラビアを中心としたスンニ派の湾岸諸国とは激しく対立している点。3つ目としては、トルコ政府と対立するクルド人の問題。さらに4つ目はアサド大統領がシーア派の分派でありキリスト教の影響も強いアラウィー派で、イスラム色の薄いスンニ派も含めた世俗派主体に支持者が多いのに対し、反政府勢力はスンニ派イスラム主義勢力が多く、世俗主義とイスラム主義の対立や宗派対立の様相も呈していることにある。

レバノンの3月14日勢力en:March 14 alliance)は、反政府抗議者たちに財政支援をしたとして非難されているが、自らはこれを否定しており非難の応酬となっている。シリアによるレバノンへの武器輸送を阻むためとして、イスラエルがシリア国内の軍事基地を何度も空爆している。レバノンに敵対しているイスラエルは、これを自衛のためとしている。また、戦闘による流れ弾がトルコの街に着弾し、トルコ軍が反撃を行うなど、隣国との戦闘も発生している。

[性質]

国際的なシリア国内の状況の認識としては、2011年12月にUNHCRが事実上の内戦(Civil war)状態であるとしたほか、2012年6月12日にはエルベ・ラドゥース国連事務次長が高官としてはじめてシリアが内戦状態にあるとの見解を示している。同年7月15日には赤十字国際委員会が事実上の内戦状態であるとしている。一方でシリア政府側は騒乱開始以来、これはあくまで対テロ戦争であり、内戦ではないとの認識を示している。2012年6月になって大統領アサドが公の場で「真の戦争状態にある」と発言している。アサド大統領は、2013年9月には「現在シリアで起きているのは、内戦ではなく戦争であり、新しい種類の戦争だ」としており、シリアは「テロの犠牲者」と語っている。また、反体制派の8割から9割はアルカイダとも主張している。

[外国勢力を巻き込んだ複雑な対立と利害関係]

シリア内戦は各国・各勢力の思惑が露骨に衝突した戦争となっており、それがこの紛争の解決をより一層難しくしている。アラブの春に影響を受けた、当初の目的である平和的な反政府デモを発端とするものの、その後は反体制派が周辺国からも入り乱れて過激派にとって代わられることで双方の対立が激化。その反体制派からはISILまで生んだ。

つまり、欧米諸国とその同盟国が描く巨悪・アサド政権に対する自由を求める民衆の蜂起という構図は、その後のシリア内戦で変質した。多国籍の軍隊がそれぞれ別の思惑でシリアを舞台にして、自らの権益を拡大・死守する代理戦争と化し、欧米が支援する反体制派では、民主化とは正反対であるイスラム原理主義の過激派勢力が台頭した。同時にこの対立構造ではSNSを駆使した情報戦が行われており、アサド政権とその支援を行うロシアイラン、さらに反体制派を支援するサウジアラビア・トルコ・カタールのアルジャジーラ、さらにBBCCNN等の西側メディアも含めて悲惨な難民の姿や女性、子供の被害者・犠牲者をメディアを通じてセンセーショナルに報道する場面が目立ち、プロパガンダの応酬となっている。特に欧米諸国が資金援助を行っているホワイト・ヘルメットの扱いや、化学兵器の使用に関する報道で顕著となっている。

シリア紛争に関しては双方の利害の主張が著しく、中立的な視点を持つ報道が過小または中立的な視点を持つジャーナリズムは主流メディアから殆ど追いやられているといってよい。そこには、かつての各地で起こった民族間や旧宗主国とその権益から来る利害関係から起きた内戦とは大きく異なっており、より複雑でグローバル戦争ともいえる。人道主義を掲げて樽爆弾や無差別爆撃、化学兵器の使用等からアサド政権の残虐性を厳しく指摘する欧米諸国も反体制武装勢力によるキリスト教徒への迫害を批判したバチカン市国ローマ教皇庁等の一部を除き、反体制派の残虐性やサウジアラビアが関与するイエメンの惨状(2015年イエメン内戦)には余り言及されていない。

(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』からの抜粋)

 

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百人一首

2019-07-30 05:00:00 | 投稿

好きな 百人一首


秋風に たなびく雲の 絶え間より

もれ出づる月の影のさやけき


左京大夫 顕輔(藤原顕輔)(1090~1155)は、代々和歌に優れた家に生まれ、崇徳院の命令で「詞花集」を編集しました。この歌も崇徳院の命令で差しだした歌のひとつと言われています。

(秋風にふかれて、たなびいている雲の切れ間から、もれでてくる月の光のなんと明るく、清らかにすみきっていることだろう。)

 

人も惜し 人もうらめし あきじきなく

世を思うゆえに 物思う身は


後鳥羽院(1180~1239)は第82代天皇で、「新古今集」の作成を命じた人です。1221年の承久の乱で鎌倉幕府にやぶれ、隠岐島に流されて亡くなりました。

(時には人がいとおしく、また時には人がうらめしく思われる。

結局のところ、思うようにならず、この世をつまらないものと思う為に、さまざまな物思いをする、わが身なのだな。)

 

 あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の

長ながし夜を ひとりかも寝む


柿本人麻呂(生没年不明)は飛鳥時代の人で、持統天皇や、その孫の文武天皇つかえ、多くのすぐれた歌を残しました。

「万葉集」の代表的な歌人で、のちには山部赤人と共に歌聖として尊敬されました。

(山鳥の長く垂れ下がった尾のように、長い長い、この秋の夜を、わたしはまた一人、さびしく寝るのであろうか。)


 

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(参考文献)
  百人一首  なんでも事典
   発行所 ㈱金の星社

注)変体仮名:平仮名字体のうち、1900年(明治33年)の学校教育で用いられていないものの総称である。平仮名の字体の統一が進んだ結果、現在の日本では変体仮名はあまり使用されなくなったが、看板書道、地名、人名など限定的な場面では使われている。

注)飛鳥時代

飛鳥時代は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。飛鳥時代は古墳時代大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的である。

(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』)


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チョマトー

2019-07-29 05:00:00 | 投稿

 昔、帯広市内に大きな池である「チョマトー」があったが、今では水量で5パーセント程度の小さな池になってしまった。私は六十年前、その池にフナやゲンゴロウ、そして池を飛び回るオニヤンマトンボやシオカラトンボ、アゲハチョウなどをよく採りにいったものだ。

ある日、その池へ釣りにいったら水質汚濁のため、フナが白い腹を出してたくさん浮いていた。昭和30年代のことで、日本の高度経済成長が始まった時期でもある。

しかし今は、その池に全く魚などがいなくなってしまった。私たちは、そのことをもっと重大視しなければいけないと思う。このようなことは、まだまだ沢山ある。

例えば、この50年間に帯広市野草園の植物が、四分の一が減少した。また帯広市緑丘公園には、「ヤチボウズ」がたくさんあったが、現在は全くなくなってしまった。すべて、異常気象の地球温暖化や乾燥化が原因だそうである。

確かに北海道では以前、台風が直撃することはなかったが、三年前には北海道を直撃し、多数の死者や甚大な被害をもたらした。自然の脅威をあらためて知らされた。

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   【チョマトー】


チョマトーは、帯広市西15条北2丁目にある沼である。アイヌ民族聖地とされる。

アイヌ古戦場伝説

1800年頃(あるいはそれ以前)に北見アイヌ(一説には日高アイヌ。以下同じ)が宝物や美女を獲得すべく十勝アイヌのコタンを攻撃した。当初は劣勢に立たされていた十勝アイヌが神に祈りを捧げると状況は変わり、北見アイヌはチョマトに退避する。北見アイヌはそこで水鳥を捕獲して空腹を満たしていると、十勝アイヌに包囲されており、逃げ場を失った北見アイヌは沼に飛び込んだ。沼が赤く見えるのはその時の戦士達の血が多く流れたからだという。そのため『血で染まった沼チョマトー』とも云われ、漢字では「血妖魔沼」と表記し、「血妖魔沼戦没者慰霊碑」が建っている。

十勝地方に古くから伝わる伝説の中でも、登場する史蹟が現存するのは数少なく、伝説の信憑性に疑義が唱えられてはいるが、歴史的価値は高いと評価されている。 同地では古くからアイヌ民族による慰霊祭が行われていたが、一時期中断し1973年42年ぶりに実施された。

沼の埋立

従来から水質汚濁等による蚊の発生や隣接する市道が大きく湾曲していること等から、隣接市道の直線化が議論されていたが、近年、議論が再燃し市道の直線化議論が起こり一部住民の反対もある中、沼の一部埋立を含む工事が2004年5月に開始された。

(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia

 

 

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「銀河鉄道の父」の本

2019-07-28 05:00:00 | 投稿

門井慶喜著「銀河鉄道の父」の本を紹介したい。

 

<賢治を見守る親の切なさ>

自分の子供が宮沢賢治みたいだったら、賢治ファンはどうするだろう。賢治の生涯を父親の視点から描いたこの長編小説を読んで、つくづくそう思った。

親は、だれしもわが子に立派に育ってほしいと願うものだ。賢治ファンだって、間違ってもデクノボーと呼ばれるようになってほしいなんて望まないし、早死にもしてほしくないはずだ。だが、賢治は今でこそ国民的作家だが、生前は無名だったし、父親よりも先に死んだ。父・政次郎はそんなわが子をどう思い、どのように接していたのか。

 

賢治は富裕な質屋の長男として生まれた。子供のころから鉱物や物語に興味を持ち、勉強はできたが、世俗的な出世には関心が薄く、他人との交渉事も苦手。夢見がちな一方、頑固でぜいたく好きでもあり、時々は製飴(せいし)業を興したいとか人造宝石を造るなどと事業欲も出しても、資金は親の懐を当てにするばかり。頭にいっぱいの理想を抱えながら、生活力に乏しく、口にする言葉と実際の行動にはギャプがある。

好き勝手する息子を、応援してやりたいと思う一方、それで大丈夫なのかと心配でたまらない。厳しすぎないか甘過ぎないかと迷ううちに、親の教育方針はブレまくる。政次郎自身、「明治の男」らしく、長男は家業を継ぐのが当然と思う一方で、質屋という仕事に疑問を持つようにもなる。金を借りに来る客は、自分のずるさや不誠実を棚に上げて、質屋を悪者扱いするからだ。文化事業にも関心がある父は、うっすらと息子に共感するだけに、ずるずると譲歩することになる。

 

子どもは親の望み通りには育たない。結局、子どもの人生は子ども自身のもの。親は敗れ去る存在だ。愛が強い分だけ親は弱い。

賢治の作品が載った地元新聞を喜々として配り歩く老父には、思わず「良かったですね」と声を掛けたくなる。 (長山靖夫、文芸評論家)

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注)門井慶喜 

門井 慶喜は、日本小説家推理作家

群馬県桐生市生まれ。同志社大学文学部文化学科文化史学専攻卒業。 

[略歴]

出生は群馬県だが、3歳のときに転居した栃木県宇都宮市で育つ。宇都宮市立城山東小学校から宇都宮市立国本中央小学校を経て、宇都宮市立国本中学校栃木県立宇都宮東高等学校同志社大学文学部文化学科文化史学専攻(現・文学部文化史学科)卒業[6]

大学卒業後、1994年から2001年まで宇都宮市にキャンパスのある帝京大学理工学部で職員として勤務。初めて文学賞に応募したのは2000年創元推理短編賞

2003年「キッドナッパーズ」で第42オール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。2005年に歴史小説を書くのに適していて妻の実家のある大阪府寝屋川市に転居、自宅近くのアパートを借りて執筆場としている[4]2006年『天才たちの値段』で単行本デビューする。2018年、『銀河鉄道の父』で第158直木賞受賞。

(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 

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「雨ニモマケズ」のこころ

2019-07-27 05:00:00 | 投稿

 本「抜粋のつづり その七十七」を読んでいたら、龍谷大学教授の鍋島直樹氏が宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のこころについて、以下のように書いていた。

 

「行ッテ」という行動は、一方的な犠牲ではありません。相互の愛情が深く重なりあうことです。

宮沢賢治は自らの理想とする菩薩精神を、自己犠牲の精神というには一度も表現していません。本来、菩薩の実践は、自利利他円満の安穏をめざしています。我を先として我を軸とする自我的方向を転じて、相手を先として世界全体の幸福を軸とする利他的な方向に、自己の生き方が置かれるとき、それが菩薩の行といわれるのです。

しかも、その菩薩の実践は永遠の未完成であることを内に含んでいます。なぜなら死別を免れることができないように、どれほど相手を思うとも、何もなしえないことがあるからです。

だからこそ終わりのない情熱をもって、すべてのものの幸福のために生きようとするその過程が重要であり、永遠に未完成の行として道を歩みつづけるところに、菩薩の利他愛があります。

宮沢賢治のめざした幸福像は、相手の幸せに自己の幸せを感得するような生き方です。大悲にぬくめられた自己が、自利自他の安穏のために、骨をくだいて尽くそうとするところに、力強い生き方がうまれるのではないでしょうか。 (完)

 

「十勝の活性化を考える会」会長

注)鍋島直樹

プロフィール

専門は真宗学、親鸞浄土教の生死観と救済観、ビハーラ活動研究。死の前で不安を抱える人々、愛する人と死別して悲しみに沈む人々の心を理解し、生きる力を育むような仏教生死観と救済観の研究教育をつづけていきたい。
1995
117日、阪神淡路大震災を経験し、日本全国、世界中の方々からあたたかいご支援を頂いたことを忘れたことがない。2011311日、東日本大震災を知り、何か突き動かされるような気持ちになって、東北の被災地を震災直後から37回訪問(2018年時点)した。実際には、支えたい自分自身が、被災地の方々の優しさや笑顔に支えられた。遡ると2004年から、宮沢賢治記念館や宮沢家と交流し、宮沢賢治が『雨ニモマケズ』の詩の中で、「行ッテ」という言葉を大切にしていたことを学んだ。

(出典:reserchmap

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