結城庄司著 “アイヌ宣言”の紹介。この本は、アイヌ民族の復権などについて書かれているが、あとがきの一部分だけを載せよう。
『(前略)現在、さまざまな形で「アイヌ復権」活動の様子が新聞や雑誌に報道されている。これからもアイヌ文化活動をはじめとするアイヌ解放運動が、アイヌウタリに深く根ざして行っても衰えることはない。
ましてや貧乏問題としてかたづけられない次元で論じられている。そのような窮状を高倉(*)は過去の研究調査では展望でき得なかった。(*高倉新一郎のこと)
一つの「民族」という伝統的、文化的、精神的集団が、世界の人類社会から消滅することはない。中国を観てもそうであるし、世界の少数民族の歴史がそうであるように、高倉のように簡単な結論を出すとするならば、それはデッチあげである。
高倉もやはり内なるアイヌモシリに到達することのでき得なかったアイヌ研究者の一人であったし、単なる御用学者に過ぎなかった。
(一)、経済的には一種の無能力者として保護する。
(二)、経済的に社会的に全くその固有の勢力を奪われたアイヌ。
(三)、アイヌを平和に、完全に同胞として吸収する。
以上、この三本の柱が高倉新一郎の「アイヌ研究」の本音であった。そしてアイヌを
未開人、土人、旧土人、無能力者、貧乏、同化融和と、あらん限りにみくびるなかで罵倒するのである。
さて、(一)の「経済的に一種の無能力者」だというのだから、ずいぶんとふざけたことを断言するものである。原因(侵略)があって結果(服従)があるとするならば、“無能力者”に仕立てた仕掛人はどこのどいつなのか。
経済的にというならば、アイヌ民族の経済は自然資源が全てである。アイヌモシリの自然資源を略奪して肥え太ったのは誰なのか。他でもない大和民族の日本国家ではないのか。高倉の親たちも侵略者であり、肥え太ったシャモである。その子、新一郎は何を言うのであるのか。
アイヌ民族から全ての生産手段を奪っておきながらよくもぬけぬけと“無能力者”よばわりができるものである。素朴に考えてもわかることではないか。例えば、北海道の河川にもどって来る「鮭」全部はアイヌ民族の既得権に属するものである。
原生林もそうである、と単純に考えてもそれらの漁業権、伐採権を略奪せずに正当な交易として現在まで、アイヌモシリが維持してきたならば、アイヌは果たして無能力者だったであろうか。(後略)』
この文章を読んで、次のように思った。同化政策や強制移住などを強いられたアイヌの歴史が高倉の主張のようであれば、事情は異なるが韓国の慰安婦、強制労働問題も両国政府で解決済みであることへの認識に、相異があるのと同様なのかもしれない。ただし、アイヌ協会では、過去に政府がアイヌ民族から奪った鮭の漁業権や伐採権に係る損害賠償の請求をしていない。
日本政府では今年4月、アイヌ民族を日本の先住民族と認めて、「アイヌ文化施策振興法」を作ると共に、国立共生象徴空間“ウポポイ”などを作ることにしたのかも知れない。なお、アイヌ遺骨返還問題(後段、注)は政府方針が決定し、各地で返還が始まっている。
アイヌの強制移住のことも本に書いているが、その具体例として、「新冠御料牧場」については次のとおりである。
①明治5年(1872)、アイヌが住んでいた北海道日高地方南部の約7百平方kmが日本政府(北海道開拓使)により「新冠牧馬場」とされた。これは「東京23区全体の621平方km」より広い面積である。明治21年(1888)「新冠御料牧場」と改称。(宮内庁所属牧場、皇室財産)
②ここは、古くからアイヌコタンが存在していた地域であり、11個のアイヌコタンがあり、535人のアイヌが住んでいた。(明治6年「地誌提要 浦川支庁原稿 上」)
それをアイヌには何の協議もないまま牧場用地に、そのまま編入されたということである。そして明治10年(1877)、牧場内のアイヌの土地は国有地とされ、自由売買は禁止。
最終的には、大正5年(1916)、姉去(あねさる)コタン74戸の平取村上貫気別への強制移住をもって、この地域のアイヌコタン全てが、「地区外への転居」を強制移住されたことになり、この地域のアイヌ社会はほぼ崩壊。
③この地区のアイヌに限らないが、明治初頭までのアイヌの生業は、主に漁場での労働、自営でのサケ漁と販売などで収益を得る一方、冬場はクマ、シカ、キツネ、ウサギなどの毛皮猟を生活の糧にしていた。ところが、明治中期に入ると漁場労働から排除、サケ漁も禁止されるなど主要な生業の道を断たれ、居宅周辺の粟、稗栽培だけでは十分でなく、生活は非常な困難に遭遇。
④アイヌに対して勧農政策がとられ、御料牧場でも明治28年(1897年)にアイヌ1戸に就き2町歩(約2ha)の土地をあてがわれた。
⑤土地の貸付を受けた下姉去地区は、まだ森林で日中も暗くて歩けない程の所であったが、姉去コタンから12km以上離れている御料農園の労働を行った。
⑥明治34年(1901)8月22日、閑院宮載仁親王が牧場に来場し、視察を行った。
その際に、白髪のアイヌエカシ(古老)が進み出て「この地方は我ら祖先の開墾せしものなるをお取上げとなり、為に我らは今日難渋を極めいるを以って、何とぞ返還あらんことを請う。」と明晰に陳情。
しかし、この件は、浦河支庁長により「当該エカシの失言」として処理された。この件の他にも、「大正5年の上貫気別への強制移住」後の大正14年(1925)2月26日、アイヌ49人の連名で、帰還請願書が新冠村長あてに提出。
⑦大正3年(1914)、牧場長からアイヌに対して貸付地である姉去コタン及び耕作地 の返還命令が出される。
⑧移住先は、姉去コタンから50km離れた山中の「上貫気別」(現在の平取町 貫気別 旭地区)」とされた。
姉去コタンが所在する新冠などの日高地方の太平洋岸の地域は、道内では温暖な地域であるが、「上貫気別」は内陸であり、日本百名山のひとつである幌尻岳のすそ野に位置し春の融雪は遅く、秋の降霜が早いなど温暖ではなく過酷な入植地である。
⑩最終的に姉去コタンのアイヌ約70戸300人の移転が完了したのは、大正5年(1916年)3月であった。つまり、姉去コタンという集落は崩壊した。
⑪昭和20年(1945)の敗戦により、皇室財産であった御料牧場は財産凍結され、一般の日本人やアイヌから牧場開放の声が挙がり開放運動は終息。
「十勝の活性化を考える会」会長
注) アイヌ遺骨の返還について
アイヌの人々は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族です。
政府では、衆参両院による「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」(平成20年6月6日)及び「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」の報告書(平成21年7月29日アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会決定)等を踏まえ、内閣官房長官が座長を務めるアイヌ政策推進会議の下に、アイヌの人々の意見等を聴いて、アイヌ政策の推進を図っているところです。
その中で、過去に発掘・収集され、現在大学が保管するアイヌの人々の遺骨及びその副葬品の中には、アイヌの人々の意にかかわらず収集されたものも含まれていると見られていることから、アイヌの精神文化の尊重という観点から、遺族等への返還が可能なものについては、返還するとともに、遺族等への返還の目途が立たないものについては、国が主導して、アイヌの人々の心のよりどころとなる象徴空間に集約し、尊厳ある慰霊が可能となるよう配慮することとしています。
この方針を踏まえ、文部科学省は遺骨の返還手続きに関するガイドライン等を踏まえ、出土地域が特定された遺骨の返還申請を受けつけるとともに、大学の取組について情報を公開しています。
(出典:文部科学省ホームページより)